カウンセリング・セラピーと霊性の道は一見別に見えますが、その両方を突き詰めてゆくと、実は同じ目的をもっていることがわかります。
その究極の目的とは、”何が起ころうと決して乱されることのない幸福”です。よく考えますと、全ての人が同様におなじ望みを抱いていることがわかります。
カウンセリング・セラピーと正当な宗教は、アプローチは違っても、この万人の願いに資するものだと、私は考えています。
実際のところ、カウンセリングは突き詰めれば霊的領域に関わります。宗教はその正しい真剣な実践において、極めてカウンセリングに接近します。
仏教とヨーガ
それぞれの違いと共通点を見ていくのには、まずは仏教の視点からざっと見ていくとわかりやすいと思います。
仏教は、お釈迦様の初転法輪(お悟りを開いて最初にお話になった教え)から始まります。そこで語ったとされているのが、【四諦】の教えと、それに続く【八正道(八聖道)】の浄化の道です。※諸説あり
要約すると、このような教えです。
1 現象的な宇宙に存在するものは苦悩や悲哀と無縁ではない
2 苦悩の原因は、現象的な世界に対する執着である
3 苦悩は、この現象世界に対する欲望を一掃することによってのみ止む
4 一掃する方法は、高貴な八重の道、八聖道を歩むことである。それは、正しい見解・正しい思索・正しい言葉・正しい行為・正しい生活・正しい努力・正しい集中・正しい禅定
お釈迦様が説いた教えのみを上座仏教といいます。しかし仏教がおこった当初の俗世から離れるというスタイルが時代に合わなくなったことや、のちの修行者がより洗練させていった結果として、大乗仏教がおこります。日本の仏教はこの大乗仏教の一部が伝わってきたものです。
この大乗の方法論ではカルマは浄化され、徳は積めます。しかし意識的な深まりとそれに伴う経験が不足すると気づいた修行者たちは、さらに大乗の中に、エネルギーやイメージを利用した修行法(ヒンドゥー教、ヨガ)をその中に取り入れます。それが金剛乗、つまり密教です。
上座→大乗→密教という順番に、仏教は土台はお釈迦様の教えであることは変わりませんが、時代に合わせた変化(成熟・統合)をしていきます。
「私たちの本性は本来純粋で光り輝くものであるが、いくつもの過去世における誤りによって心が曇り、真我を見失い、苦しみの輪廻に迷っている」
このような基本的な見解において仏教とヨーガは一致しています。ヨーガにはいくつかの種類がありますが、現代で広く認知されているアーサナ(体操)やクンダリニーヨガのその本来の目的は、肉体的なエネルギーを高めることによって悟りを得ることにあります。日常で神のみを思い解脱を得るバクティヨーガ、自分の現世での使命を徹底して遂行することを通して解脱を得るカルマヨーガなどもありますが、仏教同様、ヨーガのプロセスおいてキーワードとなるのは、【浄化】です。
解放としての赦し
キリスト教、特に聖書については、仏教とヨーガに比べて、象徴を読み解くなどの慎重な理解が必要なように思います。イエスは自身の実践を通して、「私に続きなさい」と言いました。ベースにある罪と赦しの概念は、極めて実践的かつ最も大切な教えの一つである「隣人愛」の線で理解されなければなりません。
仏教が悪業を自身で精算しなければならないと説く一方で、キリスト教は「赦す」こによる無条件の癒しを私たちに教えます。
仏教ヨーガでも高度な解釈になると同じ見解を有しますが、この点でキリスト教は、イエスの登場したタイミングからしてもより統合的な教えではないかと考えます。
私たちはセラピーで、時に神(自身の魂)との関係を感じる瞬間があります。また、自分や他人を本質的な意味で「赦す」ことを通じて、深い癒しが起こることも事実です。
セラピーと浄化・意識拡大・統合
現代の最先端と言われている脳科学、物理学、そして心理学においても、科学的という条件のもとで進化を遂げつつあります。その現時点での大きな成果のひとつとして、諸々の科学は仏教やヨーガなどが体験をベースにはるか昔から言い続けてきたことを科学という条件によって確認しつつあることに気づき始めています。
カウンセリング・セラピーにおいても同様で、実は突き詰めるほどに宗教性を意識せざるを得なくなってゆきます。エネルギーなど、未だ認知されないフォースについての洞察も必要となってきます。
クライエントについても、核心的で深い洞察が訪れ、人生の道がひらけていくとき、そこには、地に足ついた心の整理が起こると同時に、その背景に、その方の魂の存在を感じます。なぜなら、面談の中で起こるのも【浄化】だからです。
私たちが成長や進化とよぶものは、【意識の拡大】と、それに伴う自他理解の増大と要約することができるかもしれません。それは自分にしても、他人に対しても、あるいは世間に対することでもおなじです。
浄化というと、ネガティブな要素を洗い流していくイメージが先行しますが、より統合的な見方をするならば、あらゆるネガティブな要素にしても、その人にとってそれは何らかの理由で必要だった、と愛ある理解によって本人が受け入れて包み込んでゆくこととも言えます。すると浄化は、【統合】のプロセスと言い換えることもできます。
成長に伴う危機
毛虫が蝶に大きく変態するとき、生き物が生まれるとき、脱皮するとき……
ここには成長のために高いリスクをとるという、自然界の法則が働いているのが見えます。私たち人間もおなじく、何か大きな挑戦をするには、それに釣り合うリスクが伴うものです。
羽化は英語でemergenceで出現という意味もありますが、emergencyと一字変えると変事、異変となることもあり、変化と危険は紙一重な部分があります。
内面においても同様のことが言えますが、このことは社会ではあまり認知されていません。本人は真剣だが、周りからは単に頭がおかしくなったとか、変になったと思われてしまうこともあります。特に内面においての変化は、社会との関わりを包んでいかなければならないため、当人が過去の習慣に引きずられてしまうと、上手に次のステップに移行できない場合もあります。
この移行を正しい道のりで歩む道しるべとなるのが、正当な宗教の担ってきた役割であるといえます。当セラピーでは時折、この視点に基づいたアドバイスをしております。
真実はあなたの中に
宗教とは、個人、ひいては人類の意識拡大のための手本、あるいは具体的な手引きであると考えています。
なのでキリスト教を大切にしているのであれば、その線でご自身の成長を考えてゆけばよいだろうし、神道・儒教・イスラム教など、他のどんな宗教でも、もしくは他の信念でも、”本人その人が何かそこに意味を見出している”という理由で、私はそれを尊重したいと考えています。
宗教の教義が、または他者が何を指示・強制しようと、その時ご自身が感じていることが最も大切なことであって、外の意見をわきにおいて自身の内面ときちんと対話していく作業が、ひいては私たちの目指すところへの最も力強い前進となります。
それは科学のいずれ到達するところであるだろうし、また、人類全ての希求する”何が起ころうと決して乱されることのない幸福”への、まっすぐな一本道であると思います。なぜなら、私たちの本来の姿は、悟りそのものだからです。答えは自分自身なのです。