ソウルメイトを真理の視点から考える
とっても魅力的ですよね、ソウルメイト。
運命の人、魂レベルで結びついた自分の片割れのような存在。
想像しただけでとろけそうになり、なんとなく、「ああ、自分のこの物足りなさはそのパートナーに出会えてないからなんだ」と考えてしまいます。
ソウルメイトの他にも、ツインレイ、ツインソウル、正直その辺りの細かい定義は分かりませんが、どこか似たニュアンスを感じます。
確かにソウルメイトはいます。本当にそういう人はいます。そういう人に出会うと、もう他には何も要らないとさえ思う瞬間があります。いろんなところでピタリと呼吸が合い、まるで一心同体のようになります。同じ魂の片割れですので。これは私自身の体験で、2回経験しています。
ですが、その人とは今は一緒に居ませんし、別れ方も綺麗ではありませんでした。「それは本当のツインソウルではない」と言われてしまえばそれまでなのですが、”驚くほどピッタリくる異性のお相手”をここではツインソウルと考えて、自分の考えをまとめていきたいと思います。
ソウルメイトという概念自体に意味はない
そもそも論になりますが、ソウルメイトとは、数いる他人の中で自分と特別に縁の深い他人のうちの一人と言い換えることができます。”特別のさらに特別な人”とでも言えましょうか。つまり、他人の中でも自己にとっての重要度がとりわけ高い存在ということだと思います。
この時点で、ソウルメイトという概念に意味を感じる人と感じない人に分かれるはずです。というのも、ソウルメイトという概念は、世界の中には自分にとって重要度の異なるものが存在するという、一種の分離感に基づいた概念だからです。
この分離感に基づいた見方は一般的ですが、真理の実践を求める人々にとって他人のうちで区別を設けることは、愛の実践の逆さまになります。博愛とは誰も区別しないことです。そして神は博愛そのものですから、本当の意識に到達したいと思うのであれば、どちらの態度をとるのかは自然と決まってきます。
だからといって、神の博愛を表現するといっても、全ての人に機械的に同じ振る舞いをするということではありません。子供、配偶者、ご近所、会社の顧客や上司、あるいは部下に対して、それぞれに適切な振る舞いの方法をとった上で、その形の背後にある気持ちは一様に愛であるように努める、という意味になります。
ソウルメイトを考えている時の心を観察してみる
私を含めて誰でも、自分にとっての特別な存在を求めている心の部分があります。そうした心について一緒に観察してみることから、ソウルメイトという考えについてみてみましょう。平均的な人類の一人との自覚のある私の場合、こんな状態が生まれてきました。順番にみていきたいと思います。
1 それを見つけ出せば自分は幸せになれるかもしれないという期待感
2 掻き立てられる自身の欠落感
3 目の前の現実に手がつかなくなる感覚
主要な三つの感覚が生じましたが、これだけでも、もう一度ソウルメイトを考えることが躊躇われるほどです(笑)
まず1番、そんなことないですよね。幸せは神性の表現の結果です。
2番、これもネガティブな結果しか生みません。
3番、もはや論外です。
あらためて自分の想念を観察してみましたが、もう2度とこれについては考えたくありません笑
確かにそういうドンピシャなお相手というのはいるのですが、出会う前にそのことについて考えることが無意味であることは今確認した通りですし、出会った後に自分たちの絆を確認する方法としても、あまり良くはないと思います。なぜなら、特別感を強調することは、真のバランス感覚を備えたパーソナリティにはなれないからです。
そもそも、ここ(地球)に来ている目的は何なのか?
横道にそれたがるエゴをコントロールするには、「そもそも論」が有効です。私もよく道に迷い出したと感じた時には、「(深い意味で)これはそもそも何のためにやっているんだ?」と自問するようにしています。
どのような宗教でも、あるいは道徳や”道”と呼ばれるそれぞれの分野においてさえも、人間が己の生活を極限まで高めようとした時に自然とどのような方向を目指すのか。
それは自分よりも遥かに壮大な”大いなるもの”と一体になるよう、それを妨げている心の働きを知り、コントロールすることではないでしょうか。
ここに、”そもそもの魂の目的と方向性”が見えてきます。
私たちは大いなる本源、すなわち普遍意識、神、大宇宙の意識に戻ろうとしており、それを妨げている自我という夾雑物を越える努力をしています。その目覚めの過程を進化成長と言ったり、浄化と表現しているのだと思います。
大切なことは、私たちの本性、すなわち真我を常に中心に考えることです。一体であり、分離は一度も存在したことがないという真理を中心に据えて物事を考えることで、不要な寄り道が少なくなります。
まとめ
ちょっと話が壮大になりましたが、これは自然なことです。私たちの存在そのものが壮大であり、神のごとく普遍的なものだからです。
そんな私たちが、果たして個人という仮の姿のために神性という本性を犠牲にして良いものでしょうか。
ツインソウルとは、確かにそう呼ぶにふさわしい関係はあって、それ自体の出会いは素晴らしいものです。ですがそこにこだわることでかえって全てを失うことは、めいいっぱい強調してもいいかもしれません。真我においては誰もが兄弟であり、自身の片割れであり、私たちは、彼らがいなければ完全であることはできません。