神の使命に生きる
誰もが一度は、自分の生まれた理由について思いを巡らせます。言うなれば「使命」「天命」「魂の目的」を思い出したと確信するまでは、どこか気持ち悪い感覚がつきまといます。
たとえば犬が首輪に繋がれて、本来のからだの躍動感を発揮できていないような…あるいは虚しい感覚とでもいいましょうか、何か物足りない、生きている実感が薄い感覚を覚えます。
私もそうでした。その感覚は長い間自分の魂を焼き、身を焦がし、心の潤いを干上がらせてきました。ですがここでひとつの確信に行き着いたので、共有します。
目的は生きていく中で浮き彫りになっていく。
まずは事実確認からしましょう。多くの人が自分の魂の目的に同調しない人生を送っており、「本当の自分探し」をしているという事実です。これが意味するのは、思い出すこと自体が人生の目的の一つであるということです。実際、これが人生の目的の半分かもしれません。これは人生を本当に実りあるものにするための基礎づくりの段階とも言えるかもしれません。
全ての人がこのような意味で、人生の目的を果たしつつあります。これを読んでいるみなさんも、今まさに目的を順調にこなしつつあるという認識を持つことが大切だと思います。なぜなら、焦りは冷静さの欠如であり、落ち着いていなければ内観できないからです。
「私は今、自分のなすべきことを探している。本当は何なのかを知るために生きているんだ」
このように、しっかりと今を認めることが大切な第一歩になります。
目的、使命を見つけられるかどうかは別問題
誰もが探す道を歩んでいます。しかしながら、自分の使命、天命、魂の目的を見つけられる人、言い換えれば自分の人生に納得している人とそうでない人たちがいます。その違いは何なのでしょうか。
実際、それは自然には起こりません。自覚の有無はそれぞれですが、意図的に自分の魂と同調、整列する努力が必要になると私は思います。特に自分がライトワーカーとして100%、いや120%働きたいと願う魂であれば、その役割の大きさに比例して、目的の自覚にたどり着くまでの努力は大きなものになるように思われます。
また自覚するには、自覚したことを実行できるだけの能力、器を身につけておく必要があるようです。子供と大人ではその自覚の制限に差があるように、その差を埋めるには、意図的な学びとそれに基づいた経験の蓄積、そしてその経験からのフィードバックを適切に活かすハートと能力が求められます。
答えになっていないと思われるかもしれませんが、知ろうと具体的な努力をしていくしかなく、人生に体当たりしていくしか方法はないように思います。王国は力づくで手に入れるものです。何事も、努力なしで得られるものなんてありません。
目的を見つけられなくしているブロック
全てはカルマの法則に依存します。結果として現れているものには、全て原因があります。私たちが見ている世界や自分とは、 ”内的状況の外的映像” です。目に見えない部分を変えない限り、目に見えるものに変化はありません。”生きる具体的目的”という外的映像は、内界において魂と精神と肉体がきちんと整列していることによってのみ明らかになっていきます。
整列の定義は、肉体、分離感に基づいた自我ではなく、魂(愛、統一、赦し)に基づいた真我に基調を合わせて実生活を営むこと以上のことではありません。普段の私たちの思考や言葉や行動がどこに基調を合わせているのかを考えれば、それ自体がライトワーカーとしての目的を見出すのを妨げている壁になっていることは明らかです。
肉体に関する幾つかの層と感情体に刻まれた波動の刻印の浄化も、並行して大切です。水は情報を記憶します。同じく諸体の大半が水の性質を持っている私たちは、物質的な記憶デバイスのようなものでもあります。情報の集積を”私”と呼んでいる事実からも、この情報のクリーニングを行うことが、実生活を浄化する上でも大切な位置を占めているように思います。
真のライトワーカーとして目覚める方法
一過性でも、単なる流行りでも、無知な人たちの趣向に合わせたエンターテイナーでもない真のライトワーカーになるための方法は、仏教やヨーガの世界のみならず、あらゆる宗教の中で、大衆の好奇の眼差しに触れない形でほぼ確立されています。
その方法の核心は、正しい真理の教えの徹底的なインプットと教えの実践にあります。それは要約すれば、清らかな生活を送り、人々に奉仕し徳を積むことです。結果として心と体は浄化されます。カルマが落ちることによって学びと理解が深まり、そのうち、私たちの魂の使命は、内側に自覚としてやってきます。
あらゆる神話が聖なる宝を手に入れるために主人公に大いなる旅をさせているように、目覚めのプロセスも往々にしてそのようになります。主人公は皆勇者であるように、私たちにも同様の勇気と奮闘が求められます。
私たちの誰もが、白馬の王子様からの心躍る誘拐(笑)や、突然空から美少女が降ってくるような幻想を抱きがちです。しかし聖なる波動を持つ大師たちの弟子として働くことを求めるならば、自分がそれに相応しい存在であることを、大師たちにわかってもらえるような地道な努力が必要です。
自分のためには何一つ求めることなく、ただ他者のために貢献したいという気持ちを少しづつ育てていくことが、真のライトワーカーには求められています。
現に考えてみてください。私たちが想像しうる限りの聖なる存在方が、わずかでも自分の利益を考えて振る舞うかどうかを。私たちは、長い時間をかけて少しづつそこに近づいていかなければなりません。
最も大切なこと
魂の使命、これをもう少し噛み砕くと、世間の手垢に染められていない心の中心からの願い、つまり「本当の自己の願い」と言い換えることができるかもしれません。そしてそれはなんとなく、大いなる宇宙の流れとうまく噛み合うものであり、「自己と世界の調和」という側面もありそうです。
そして本当の自己とは真我であり、宇宙であり、神ですから、私たちは自分の魂の使命を考えているとき、同時にこう思うべきです。
「神は私や全ての人々に、どうあってもらいたいのだろうか?」
私たちは、神という唯一実在する主人の意志を行う幸せな召使のようなものです。そして神は物質次元では直接働けないので、肉体を持つ私たちの力を確かに必要としています。そして肉体を持つ私たちは、自身が知覚している自分が最高だと思うものについて、他者に奉仕するようになります。なぜなら、自分が最高と思うものにだけ人は最高の専心ができるし、最高ではないと思うものについて行うとき、自分の能力を注ぎ込むことに抵抗する心の部分が生じるからです。崇敬する神に対して何かを捧げるときに、自分がイマイチと思っているものを捧げる人はいないと思います。
したがって、このように要約することができます。
・私たちは神という最高の理念のために働く。私の理念、ではなく、神とその反映である魂の声のために働く。
・自分というパーソナリティを通して知覚された最高のものを通して、神に奉仕する
何を通して奉仕するかは、それぞれの人に任せられています。ある人は整体師として、体を癒すことを最高の奉仕の形とするかもしれません。またある人は、丁寧で気配りの行き届いた事務作業で奉仕することを心地よく感じるかもしれません。人によっては音楽でそのバイブレーションを共有することかもしれないし、愛情をもって子供の成長を見守ることがそれかもしれません。
しかし共通するのは、それぞれ行うことが異なっても、全てが聖なる存在への供養とされているところです。私もこうしてブログを書いているとき、それが自分の真心から神に向かって届くのをイメージしながら作業しています。皆様もぜひ、自分のできるほんのちょっとでも、真心を込めて取り組んでみてはいかがでしょうか。
神の使命とはつまり、目の前の出来事や人に対して愛を持って接することです。「自分の本当の使命を探しているんだ」と言って、目の前の豊かな学びの場が見えなくなってしまうことがあります。答えは常に目の前にある、とはよく言われていることですが、これは私の経験上からも、本当に真実なのだと思います。