使命を探す際の落とし穴
利己的な理解に注意
私の使命は?私は何をすべきなのだろうか?
このように、主語はいつも「私」です。この染み付いた利己性に気づき、「私」から「あなた(隣人)」へと意識の方向を切り替えるまで、私たちは闇の中を彷徨うことになります。堂々巡りの終わらない自己分析に足元を掬われ、人生で与えられたさまざまな資力を浪費することは、「私たち」にとってというよりも、「人類家族全体」にとっての停滞を意味します。
「世の中に、あなたのことを気にしている人なんていないわ」
という、人を安心させる気遣いの慣用句が裏打ちしているように、実際に私たちの誰もが、日常で自分自身のことばかり考えています。他人のことを考えたとしても、自分に関連するものとして考えます。自分の仕事、食べ物、家族、将来、運命… こうした傾向に対して、イエス大師は、「明日のことを思い煩うな(マタイ6章)」と教えつつ、同時に私たちの利己性に対して指摘しているのを私は感じます。
現代では多くの人たちが自分の使命探しに奔走していますが…その多くは、身も蓋もない言い方をあえてするならば、自分の満足のために他人を使いたいだけのエゴイズムではないでしょうか。過去の私もそうでしたが、多分多くの人がこの極端な断言に対して反論したくなる気持ちを抱くように思います。確かに、奉仕したいという衝動は本物であり、尊い気持ちです。これはまた、そう思えるだけの環境にその人が恵まれたこと、そしてそれだけ心が魂の印象づけに対して反応し始めたことを意味します。しかし私たちは、自分自身を深く欺いているのです。自分がよくなりさえすれば他の人はどうでも良いという自己中心性を克服しないまま、魂からの要求に応えようと努力すると、例えば何をやっても続かなかったり、当初の純粋な理想がいつの間にか全く反映されていなかったり、あるいはいつまでも自分について同じことを考え続けることになります。
「私は人を救いたいんだ」と言っていたとしても、心の中には強烈な「自分が大事、他人はどうでもいい」という低位我の欲望が残ったままであると、必然的に顕現する現象に歪みが反映されます。現象は内面を映す鏡だとはよくいったもので、その法則に誤りはありません。
「魂の声」を聞くテクニック
人類のこれまでの歴史の中でいくつもあった重要な局面では、必ずといっていいほど個人に対して”神、あるいは天使、仏の声”による介入が行われていました。それは個人の人生という小さな歴史においても同様で、宗派や信仰の有無に関係なく、その人自身の今後の方向性に関する強い印象を与えてきたし、それが今の世界を形作る基礎になっていることに疑いはありません。
それらの印象の全てが正しく解釈され、正しいプロセスのもとに実現されてきたかどうかは別として、私たちも積極的に魂(高位我)とのラポールを築き、その召命に従って生きていこうとしています。しかし先ほどにもお話ししたように、問題は、この印象づけをどれだけストレートに受け取れるかどうか、にあります。純粋な太陽光は、ステンドグラスを透過すれば全く違った絵となって私たちの心に刻み込まれます。このように、私たちは自分のためにすでに用意されている役割を拝受する前に、この歪曲する心の働きのことをよく知り、かつ統御しなければなりません。
ここまで説明したことで、ステンドグラスと例えた人間の低位性質を浄化することが、テクニックの主眼の置かれるところであることがお分かりになると思います。私たちは、こうした霊的事柄において自分にはすでに準備ができており、その方法さえ知れば万事うまくいくと思いがちです。要するになぜか自己評価が高く、「なぜ天使や大師たちは私の前に現れてくれないのか」「私の活動がうまくいっていないのは闇の勢力の妨害に違いない」などと考えがちです。こうした自分を中心に物事を考える態度も、浄化の対象となります。
では魂からの印象を正確にキャッチするにはどうすれば良いのか?
それは、低位我への集中を完全に捨て去ること、つまり、個人的あるいは個人に関係するあらゆる願望、反対にこうあってほしくないという嫌悪、そして生理的な必要の範囲を超えた欲求をできる範囲から手放すことです。これをクリティカルに体で理解させてくれるテクニックの一つが、仏教における【自他交換】の訓練法です。これは、日常のあらゆる場面において自分と他者を交換します。つまり、普段「私」と呼んでいるものを「この者」と呼び、全ての他人を「私」と呼び替える訓練です。この訓練法は、普段の自分への強烈な集中を、強制的に他者への集中に切り替えさせます。
もちろんこうした実践の基礎として、ブッダの「四諦」に始まる教えを繰り返し学ぶこと、新約聖書でのイエスの発言を”注意深く”考察することなども重要です。霊的教えは、いわば人生を霊的に前進させる上での手引き書のようなものです。「ここはこういう仕組みですよ、ここではこうしてくださいね」と、とても親切に書かれています。この内容を真剣に検討し、自分の知恵の範囲で推測し、仮説を立て、実践してきちんと現象からのフィードバックを得ることはとても大切な姿勢です。
常識的であること
また、霊的印象を感受すること以外に、現実的な思考力と判断力を頼り磨くということも忘れてはなりません。誰もが神秘家として傾倒する時期があります。これは人間の浅はかな理性では到底測り得ぬものがあるという直感による献身的な態度であり、その人は、より純粋に生きることを目指して、意識的に神への情緒的献身と信頼を重視しているのです。ですがその一方では、一般的な判断や思考の力を「はるか背後においてきた」もののように扱い、軽視する傾向があります。
しかし霊的成長とは統合の歩みであり、いずれ理性的なジュニアーナ(知恵)と情熱的なバクティ(信愛)は車の両輪として私たちを遠くまで運ぶようになるし、またそうしなければならないことを段階を経て理解するのです。特に私たち日本人であれば尚のこと、実社会に生きながらにして高い霊性を実現することが必要ではないかと思います。
常識的であることが霊的に価値ある態度であるというのは、意外かもしれません。しかし現実を見ると、高い理想とそれを実現するための実務能力を兼ね備えた人や組織だけが、世の中で人々に対して実際の影響力を持つことがわかります。常識的であるということは、周囲に対して受動的であるという意味ではなく、色々関係してくる人々との調和を保ちながら前進していく能力のことを指しています。愛は全てを包み込むとすれば、人間活動という自然の一部ももれなくその中に入るということです。
霊的であることと現実的であるということは何ら矛盾はないのです。なぜなら、宇宙のすべては神の何らかの形でのお現れであり、人間という霊的存在が考え想像したもので、何一つとして霊的意味を持たないものなど存在しないからです。神聖ならざるものは、私たちの迷いの中にしか存在しないのです。
また、宇宙的奉仕というと何か壮大なことをしなければならないとイメージがありますが、現実的思考を持つことも非常に大切です。1日のうちで自分にコントロールできる時間には限りがあることの自覚をはじめ、自分の肉体や気質に設けられた特質や限界を把握した上で自分にできる範囲のことを確実に行うことは、バランスの取れた生活を実現し、将来より大きな責任を負うために必要なステップです。こういう人が社会で信用されるように、霊的世界でも同じです。霊的領域は非常に現実的です。この世の中よりも誤魔化しが利かない世界です。したがって現実的思考と判断力は、私たちにとって不可欠な能力の一つです。
実はもう知っている?
魂の真の欲求を脳意識に到達させるためには、その自覚を妨げる不純物を取り除かなければならないことをお伝えしました。その不純物とは、肉体(エーテル)、情緒体(アストラル)、思考形態(メンタル)における低位の欲求の色付けを取り除き、水を無色透明にして、その水面を一切波立たせない状態にする必要があります。ただ、そんな状態をすぐに達成できる人はほとんどいないと思われます。本当は時間ではなく意欲の問題だけなのですが、その意欲を育てることに、私たちは多くの時間をかけるのです。それには、自分に関わる他者の成長も関係しています。自分の進みが遅いと思うとき、人は一人では生きていけないこと、そして神の願いはあなた個人が覚醒することではなく、全ての人間家族がもれなく速やかに救われることであることを思い出すべきかもしれません。
しかしながら、本人の努力とは無関係に、その湖水が一時的に透明に近づき、水面も比較的穏やかになる瞬間があります。こうした時、私たちは朧げながらも魂からの印象づけに反応します。
「もしかしたら、こうなのかも!」
「えー、でも…」
こうして逡巡しているうちに、すぐにまた湖水は濁りと波によって清浄さを失ってしまいますが、実は多くの人がこのようにして、すでに奉仕のあり方を印象付けられていたりするものです。印象を感受した直後は”比較的”純粋であったとしても、時間が経つにつれてその印象はどんどん歪曲され、終いには印象とは無関係の方向に走り出してしまうことも少なくありません。
奉仕する人生の本当の意味
奉仕する人生を望む人がいつか直面する事実があります。それは、その選択が決して個人的パーソナリティを満足させるものではないこと、むしろそれの望むものを次々と諦め、手放し、喜んで人に与えてしまうことであるという事実です。犠牲と放棄と呼ばれるこの霊的道のりは、それを知った多くの求道者をうろたえさせます。これまでも犠牲と放棄という言葉を知らないではなかった。むしろ自分はそれを喜んで受け入れているつもりだった。そんな自分を誇らしく思っていた。しかしその姿勢を自分の人生に実際に招き入れようとしたとき、目の前の巨大な壁に圧倒され、自分の実力に唖然とし、その壁の前で座り込むときが訪れます。
この世のものに執着すべきものは何もないとは理屈では知りながらも、いざその場面になると、辛いものです。友を離れ、愛する家族を離れ、自分がこれまで知らないうちにしがみついていた色々を放棄することを、魂が迫ります。多くの自己実現を望む人が逆さまに考えているのが、私たちは真の奉仕者になるとき、魂に対して服従するのであって、個人的な願望のために魂を従属させるのではないということです。
イエスの生涯がその典型的な例と言えます。彼はその時代の暗黒面を一身に引き受け、自らの肉体を捧げることにより、魂(真我)の目的を成就したと私は見ています。もちろん私はここで、奉仕のために死んでくださいと言っている訳ではありません。そこに象徴されているものを理解し、実際に私たちの人生に適応する必要があるのでは、と意見を述べているに過ぎません。
魂(真我)にとって、個人的な幸せや達成などどうでも良く、その眼差しは常に霊的成就、全体の向上、そしてより高い領域における計画の成就に向けられています。そのために私たちは、肉体的欲望に代表されるさまざまな欲望を喜んで十字架にかけ、自分個人ではなく全体、低位我ではなく高位我のために奉仕する幸福に浴することを学ばなければなりません。
だからこの道は、茨の道とも、カミソリの刃の上の道とも呼ばれます。とても厳しい道のりです。
こうして書きながら、相変わらず自分の幸福を追求し、苦痛を取り除きたいと考えている自分がいます。と同時に、他人などどうでもいいと思っている自分がいます。
正直、このように気づくときは誰しも大きなショックを受けます。
こんな自分がこの道を歩む資格があるのか?
こう考えること自体、利己的なのです。だから考えることなく、無心でただ教え通りに歩むのだと思います。