花が開くに任せるように

植物は放っておいても自然と成長します。

「このままじゃいけない、成長しよう!努力してなんとかひと花咲かせるんだ!」

のように息巻いているわけではありません。多分(笑)

太陽は自然と当たり、適度な雨と風が当たることで、育つ時に育って、花開き、時期が来れば枯れていきます。植物には考える力はありませんが、それでも立派に花を咲かせ、実をつけます。人間目線からすれば、植物たちは何も考えずただその通りに生きているだけで、他の生命たちのための環境を整え、食べ物を生産し、眺めるも嗅ぐのも楽しい世界を作り出しています。きれいな川も海も、緑のあるおかげです。私たち人間は基本的に考えすぎるので、この植物のあり方から学ぶところがあるように思います。

霊的成長の進展

私たちが霊的成長に関心を持つようになるのは、まずもって偶発的です。たまたま出会った人、たまたま起こった出来事、これまでの自分だったら絶対に手に取らなかった本をなぜか読んでみようという気になった、など。今回の記事で一番お伝えしたいことを先に申し上げれば、こうした偶発的な始まりこそ最初の奇跡なのだから、その後もあまり考えて霊的成長を焦ることなく、流れを信頼して身を任せてはどうでしょうか?とお伝えしたいと思います。

花には開くタイミングが決まっています。それと同じように、私たちがいつどのように霊的に開花していくのか、ある程度の計画が既に定められているようです。事実、霊的教えに出会い関心を抱くタイミングを、私たちはコントロールできませんでした。それと同じように、いつどのタイミングで意識を拡大させ、さらなる真理の扉を開くかは、誰にもコントロールできないのです。

私たちは、自分を常に至らない個人だと考えて、もっともっとと努力しようとします。その志なくして前進がないのはもちろんですが、かえってその自己認識が行きすぎてしまうと、成長を妨げてしまうことがあります。自分の中に生き、動き、存在している神の霊へ委ねる心構えを忘れてしまう時、私たちは混乱し、暗闇の中を彷徨って強い不安に苛まれます。「私がもっとやらねば!」という自意識が、成長点の伸展を止めてしまうのです。

意識的努力は不要なのか?

ここでこうした疑問が生まれます。
「植物が何も考えずに自然と開花するならば、私たち人間も何も考えずに普通に生活していても霊的開花は訪れるのだろうか?」

ここに、注意しなければならない点が二つあります。

第一に、一般的な人間のいう普通とは霊的観点(天界)からすれば不自然なこと。

第二に、不自然、あるいは自然に反することをしていては、自然の結果としての開花が訪れることはないという点。

私たちが自分の気の赴くままに過ごす時、それは自分の好みや逆に嫌いなものやどちらでもないものたちへの条件反射によって過ごすことになります。それはこれまでの転生の中で自分の中に染みついた色々な心の習性に従って生きることであり、いわば自我の自動人形、自我によってプログラムされたAIのように生きることと言ってもいいでしょう。こうして生活している中で霊的目覚めは基本的に起こりません。それは心の習性の奴隷になることであり、またそのプログラムそのものを自分自身だと思い込んで愛着することによって、より深く輪廻の鎖に繋がれる結果となります。

したがって、このように要約することができます。

自然に生きることができれば、修行は不要。自ずとタイミングで、自動的に霊的開花が起こる。
しかし自然に生きられていないのであれば、不自然を自然へと変えていく意識的な努力が必要。

私たちはもれなく後者だと思いますから、「全てありのままに!なすがまま、なされるがまま〜」というわけにはいかない道理となります。もしかしたらこの点の認識の違いが、ふわふわスピリチュアルと真の霊性の根本的な違いなのかもしれません。

自分を信頼することの難しさ

もうお分かりだとは思いますが、ここでの自己信頼は当然自我ではなく、真我たる自分を信じ、頼りにするということです。私たちは普段、偽りの自分を頼りにして生きています。自我の声を聞き、彼が「あれを手に入れたらあなたは安心できるよ」とか、「これを選んだら大変なことになる!」などと言う忠告に対してあまりにも従順です。自我は詐欺師なので、センスあるみなさんにはそのの正体が少しずつわかり始めているはずです。しかし代わりになる別の導き手の存在を確信できないために、宙ぶらりんになって逡巡してしまう気持ちを多少なりとも味わっておられると思います。

私たちにとって、真我は見えざる存在です。自我はこれほどまでにはっきりと見え、手触りを持って実感できますが、真我とは未だ推論の域を出ず、私たちは比較的不確かな存在に信頼を寄せようと努力していくことになります。「自我が間違いであることはおそらく本当のことに違いない、しかし…」と、私たちは姿形のわからない曖昧な存在を頼りとすることに強い不安を覚えます。自我の確かな手触りが、たとえ時として牙を剥くとしても、愛着して手放せないのです。

しかしこればかりは、自分の深い部分で感じたものを頼りに、その糸がいかに細く頼りないものに見えたとしても、それを手繰り寄せ、真我との関係をより密接にしていくほかありません。自我は不安の原理によって活発になりますが、豊かさと奉仕によって自らの神性を表現する真我は、確かに私たち人間の、根拠はないが理想的な姿です。より完全な人格を目指したいという理想は、人類に共通した衝動です。あとはその衝動にどれだけ素直に従うかが問題となります。これが本当の意味での自己信頼に直結します。

ただ現代では、人格を磨くことよりも個人的な欲求を満足させる方向に向かわせるエネルギーが強いと感じます。

さて、自分(真我)を信頼するという感覚は、学びの段階によって色々な方法が好まれます。たとえばそれがクリシュナやブッダ、キリストなどの聖なる存在方を崇敬するという場合がありますが、これは自分の中に真我を実感できない、もしくは実感しずらい場合、聖者方を通して自分の真我と繋がろうとする努力と解釈することができます。しかしだからといってこの観想が自分に直接真我を実感することに比べて劣っているかといえば、一概にそうとはいえません。主観的世界には、一概に割り切れない部分が多いのです。

ただ私の経験でいえば、段々と真我は自分の内部に感じられるようになってきます。自我が迷妄、幻想にすぎないのであれば、自分は確かに真我だからです。そして真我を感じるということは、全ての生き物の中にも同じものを感じるようになっていきます。真我とはそれぞれが持つより高い個性ではなく、真我において私たちは一つのものだからです。

なので私個人の感覚からすれば、真我を信頼するということは、私をはじめ全ての他人や動物、植物、空、川、山や海などの背後に働く力を信頼することと表現してもいいかもしれません。ある大師はこのように言います。

「この者に為したるは我に為すことと同じである」

聖者は完全に真我として生きているため、この感覚が当たり前なのですね。

真我に生きるとは、他の全ての生命と一緒に生きるということです。そして真我を信頼するということは、これまで、そしてこれからの生命の進化の流れを信頼するということです。自分を本当の意味で信頼するということは、宇宙の生命そのものを信頼し、身を任せるということとも言えるかもしれません。

自分を信頼するとき、たとえ自分が明らかに未熟だとしても、「今まさに真我が展開しつつあるんだ」とゆったり構えることが大切です。こうしてできない部分ではなく達成しつつある部分に焦点を当てることが、自分を勇気づけ、不必要な不安と自己嫌悪に飲み込まれずにいるのに役立ちます。

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