徳とは、奉仕とは何か?
大乗仏教における六波羅蜜は布施から始まります。またキリストの教えのみならず、ヒンドゥー、さらに他の西洋思想においてはそれは奉仕、献身と呼び換えられ、同じように大切なものと位置付けられています。布施や奉仕は霊的修行において大変重要視されている他に、これらは端的に言って人のために行うことなので、この世で幸せに生きるためには不可欠なものとして理解している人も多いのではと思います。
ところで奉仕とは?布施とはなんだろう?この記事では六波羅蜜にも少し言及したいので、「布施」に表記を統一して話を進め進めることにします。
布施とは
物質的布施
まず第一に、一番わかりやすいのが物質的布施です。お金がない人に食べ物やお金を恵むことをはじめ、物を得るための知識(魚の釣り方)を教えることも多分これに該当します。ホームレスへの炊き出し、子ども食堂、あとは教科書を忘れた隣の男の子に見せてあげるなどもこれに当たると思います。
布施とは主観的な要素の強いものです。ちなみに自分の手元に余っているものを「貰ってくれ」と言って人にあげるのは布施とは言いません。その人は空の手をもつ人に「くれ」と言っているからです。また商売によって対価を得ながら人に商品サービスを提供するのは、厳密には布施行の布施とは異なります。しかしもしお客さんが1万円の商品に対して「これしかないんですが…」と500円だけ持ってきたとして快く承るのであれば、布施行と言えます。ただ、それを厳格に判断できるのは天界と、その人の魂だけだと思います。なので「この場合はこうしてください」などのハウツーが示せないのが実際です。
精神的布施
次に来るのが精神的布施ですが、この精神的布施というのがいざ日常で実践しようとするとつまづくところになりがちです。要は、目の前の人を幸せにすることです。例えば以下のようなものがあります。
・不安を安心に変える
・痛みを和らげる
・喜びを更に大きくする
・話を聞いて共感する
相手がしてほしいことをし、しないでほしいと思っていることをしない。こんな単純なことですが、私たちにはとても困難なものに感じられます。なぜなら、単に相手の要求に応える、ということが相手の言いなりになることのように思えて、何か自分が大きな損をさせるんじゃないかと連想させるからです。しかしこれはエゴの価値判断であり、そうして自分を大切にしたところで心の解放にはつながりません。反対にここで布施を正しく行ずることができた時、自分からエゴが脱落するのが感じられるはずです。
通常私たちが、物質的でも精神的にでも相手の求めるものを与える時、自分にも得る物があるから与えています。しかし真の布施行においては、そういった交換条件なしでそれを行います。そうでなければ、修行になりません。この布施行のチャンスは、日常の中で非常にわかりにくい形で現れます。特に家族や、自分にとって相性が悪いと感じる相手が絶好のチャンスです。
彼らは私たちをイライラさせるだけでなく、はっきりと攻撃してきて、自分に実害があると感じさせる状況を作ります。そして実際に、実害があります。しかし相手は、必ず何かを求めているのです。何かに苦しんでいて欲しがっているから、そうした他害的な影響を振りまくのですね。彼らが欲しているものを、つまり自分が取るべき正解の態度を、当事者たる私たちは本当は理解しています。でもあげたくないのです。あげてしまったが最後、とても大きなものを失うと考えているからです。
その失うものとは、実はエゴなのです。私たちはエゴを失いたくないから、「ここで許してしまったら相手は自分の未熟さに気づかないだろう」とか、「彼には私の許しを得るだけの資格はない、なぜなら…」とゴニョゴニョ言っていつまでも自分のエゴを手放さないのです。
精神的布施の難しさがわかると、物質的布施も同じように簡単なものではないことがよく分かります。「布施」は、私たちの日常的な習慣の反対です。私たちは自分抜きで相手を見ることができません。真の布施は、こういった意味でエゴが大切にしているあらゆるものを人々に全てあげてしまうことです。真の布施は、「無私の態度」と同一のものであることが、だんだんわかってきます。
霊的布施
これは人に真理の教えを説き、悟りへの歩みを助けることです。これが最上の功徳と呼ばれている理由は、これこそが相手を直接に輪廻から解脱させる、つまり相手の真の幸福と望みを手助けしていることだからです。物質的、精神的布施はこの直接的な性格は持ちません。
個人的には、この布施が最も難しい物だと感じています。大した修行もしたことのない人が聞き齧りの教えを語ったところで、聞く人には説得力が欠けて聞こえるので、語る人にはしっかりとした修行が必要だからです。また誤った教えを伝えれば、聞く人も語る人も同じように時間と労力を無駄にし、ひどい場合は誰かを傷つけることにもなります。
誰か道に迷っている人がいたら、自分が説くのではなく良い本を紹介してあげるのでもいいと思います。とにかくそのようにして人々を迷妄から救い出し、解脱を得るための意識的な努力に向かわせることができたら最高です。
修行における布施の効果・意味
記事の冒頭で申し上げたように、ここでは六波羅蜜という大乗仏教の訓練プロセスに絡ませて布施についてお話ししてみます。まず六波羅蜜とは、修行における目的とそこへ至るプロセスについて体系化したものになります。
1布施:人を幸せにすること(利他)
2持戒:あらゆる感覚への反応の抑制(自利を滅する)
3忍辱:布施と自戒によって生じる苦痛に耐える
4精進:さらに強い決心で上記三つに臨む
5禅定:上記によって心を汚す種子を取り除いたのち、瞑想によって本格的に心を綺麗にする
6智慧:清浄な心を観察し(ヴィパッサナ)、心の本性を悟る
六波羅蜜とは本来、「六つのパーラミター(完成)」という意味を持ち、般若心経の「般若波羅蜜多」とは智慧の完成という意味になります。六波羅蜜とは、自主独立のそれぞれ六つの完成ではなく、智慧を完成させるためにそれぞれのプロセスが完成している必要がある、相互依存的なものだとご理解いただけたらと思います。
ちなみに本格的な瞑想は、ある程度心が浄化されてからでないとできないとされていて、これは私の感覚からしてもその通りだと思います。さまざまな我欲が日常の中から徐々になくなって心が清浄にならなければ、ただ濁ったゴミだらけの心を覗いても何にもならないからです。
布施による効果の一つが、この心の浄化にあります。布施の反対は餓鬼です。それはいつまでも満たされることない欲に駆られて、ひたすらに飽食を繰り返す心の状態です。それは自他の分離感を強め、自ずと自分を貧しい状態に追いやるものです。この我欲の性質に色づけられた布施というのもあり、それは自分のしたい方法で他人を幸せにしようとします。自分が満足したいために人を幸せにしようとしているのです。これでは我欲そのままです。そうしたエゴを浄化することにより、つまり他人を純粋に幸せにするために行動していたら、単純に人から好かれたり、仕事でうまくいきます。家族の融和も保つことができます。
もう一つの効果が、これは目に見えないのですが、徳が積めます。徳とは人を道徳的行動に駆り立てるための観念ではなく、現実的なエネルギーです。だからこそ六波羅蜜で最初に来ており、智慧という究極の悟りのための重要な土台、トップバッターなのです。
この徳は、欽定訳聖書の中でも記述があります。そしてその徳と翻訳された言葉の語源は「デュナミス(dynamis)」で、デュナミスは、「ダイナモ」や「ダイナミック」「ダイナマイト」の語源となったギリシャ語だそうです。(角川文庫 『魔法入門』W.D.バトラー著より)ここに、東洋と西洋の深いつながりと永きにわたる霊的系譜を感じます。
徳=力と考えて差し支えありません。よく偉大な達成をした聖者方からは「何とも言えない威厳と力」を感じると言いますが、これがその人から溢れ出る徳の力なのだと思います。私たちは徳を積むと、いろいろないいことが嫌でも起こります。これは数学における等式と同じで、得たものは何かで表現されないといけない。つまり徳=幸せなのです。
しかし仏道修行でも他の修行でも、自分の積んだ徳の果報は全て他者に回向して、徳=現世的得のエネルギーをより高い世界へ至るためのエネルギーへと昇華してしまいます。例えば人に親切にしてお礼にお菓子をもらったとして、それを近所の子供にほとんどあげてしまうなど、自分の手に渡されたものを次々とそれを求める人の手に渡してしまう感じです。彼は自分の手を常に空にしています。そうした手にこそ、真の智慧と徳が溜まっていくのです。
ちなみに日本人は比較的裕福な国民ですが、それも徳の高さに由来するものかもしれません。しかしせっかく良いところに生まれても、自分のことだけ考えて貪るように生きていると、その徳をすっかり使い果たして、その後はどうなるかわかりません。私たちは人を幸せにしなければ幸せになることはできません。これはビジネスでも同様の法則が働いているように、霊的次元でも同じと思います。
もちろん、自分に幸せになることを許可する、というように自罰的な態度は手放すべきです。まずは自分自身を満たしてあげた後に布施行に入るというルートが良い人もおられます。そういう決意をした人たちは、意識しなくとも自然と今度は利他の方へと向かうよう魂から促されます。利己的な人がこの宇宙で幸せになれるような法則はありません。これはどんなレベルや場面でも普遍的なことです。全てはカルマの法則という学びの教室の中で起こることです。祈祷や魔除けには、微細な世界において包帯や温かい食事のような効果が実際にありますが、誤解を恐れずにいえば、それらはカルマ的な現象の辻褄合わせとして働くようなところが大いにあります。
識別
ただ最後に一点だけ注意点をあげるとすれば、この布施には識別の目が必要だということです。例えば男女の別れ話で、女の人がこう言います。「あなたを殺して私も死ぬ!(実話)」これに対して「今こそ布施のとき」、と思ってその通りにする人はまずいないと思いますが…相手の求めたことが、もしかしたら相手を傷つける場合もあります。というよりも相手の求めていることと言葉は、結構裏腹なものだからです。その辺りを見極めていくのもまた修行のひとつです。
物質的布施についても、たとえば自分の持ち物をどこまで人に譲ったら良いのかという基準が難しい場合があるので、重要なポイントを二つ挙げてみます。
1 まずはそのものに対する執着があればそれを手放す。
もしそれを手放すことに多少でも抵抗があるなら、自分が真理の法やブッダ、キリストなど聖者ではなく物質に帰依していることを意味する。なのでまずは、帰依の対象を改めること。
2 常識的に判断する
完成者たちは布施を完成されたわけですが、現在世界にはさまざまな貧困が蔓延っています。つまり布施の完成とは、自分が個人的に執着している諸々を捨て去ること。大地を皮で覆い尽くすのではなく、自分の足に靴を履くことということです。だから、執着を手放した後は自由にすると良いと思います。その意味で、常識的に判断するこは頼りとなります。