癒しと十二縁起についての考察
今回は、癒しと十二縁起、つまりカルマの法則について考察していきます。私自身、この分野を完全に理解したとは言えませんが、自分の体験と理解の範囲で、皆さんに思考の糧を提供できたらと思います。
癒しの四つの分類
癒しとは何でしょうか?これは主に四つに分類されるように思います。
1 肉体的:それぞれの系が相互に円滑な作用を取り戻す結果、肉体がバランスを取り戻すこと。
2 精神的:精神が苦痛を生じさせる心理的偏向から自由になること。
3 社会的:社会の中で円滑な人間関係のもと、個人として機能できるようになること。
4 霊 的:霊としての自覚の回復。意識の拡大に伴う人間性の充実。
現代では、肉体、精神、社会的の三つに重点が置かれています。良識ある思想家をはじめ、社会を牽引していこうと努力する実業家や社会福祉に貢献する人たちは、これを総合的に達成することが重要だと認識しています。霊的癒しについては、未だ確立された科学性はなく、主観的で、多くの思想がぶつかり合っている状況という理由で、未だ揺籃期といえます。とはいえ、この霊的癒しを重視している個人は確実に増えてきています。さまざまな教えがあって双方食い違うように見えても、そこには人間の理解を超えた統一性が垣間見えることもあります。
癒しが必要な状況を病とすれば、病という結果がどのように生じたのかについて理解することは不可欠です。肉体の場合、それは器質的、化学的、精神的なものに求められます。精神の場合、肉体に由来すると考えられる場合もありますが、多くの場合、精神そのものと、精神を条件付けた外的環境に原因が求められがちです。社会的病はもっと複雑で、個人のあり方をはじめ、地球環境など、さまざまな要因が考えられます。霊的病の原因の解明は、今のところ宗教に頼るほかないのが現状です。
全てはカルマの法則の内部で起こる
実際のところ、上記全ての問題が「鶏と卵」のように同時的に存在しているように思えます。それぞれの領域が双方向的に影響し合い、容易に根本原因について語ることができないのが現実です。しかしそれらの根本には、それぞれの病気を作り出した原因が存在し、原因が結果になるまでのプロセスが存在するはずです。色とりどりの花や果実は、その根においてひとつなのです。これがカルマの法則と呼ばれているものであり、カルマの法則の中で起こるポジティブな結果を、私たちは癒しと呼んでいるのだと考えられます。
私たちは癒そうとして、また癒されるることを望んで色々な方法に熱心に取り組みますが、その前にカルマの法則について簡単にでもいいので理解し、全ての根本原因と今目の前にある結果がどのようにして生じたかについての知的な理解をする必要があります。カルマの法則に対する敬意がなければ、私たちはそれを上手に活用することはできません。
自分の病気が治ったのは、腕の良いお医者さんにたまたま巡り合ったからではありません。イジメにあってそこからなかなか這い上がれなかったのは、苛めてきた連中や自分の根性の悪さのせいでもありません。全てはカルマの法則の中で、その機械的仕組みによって生じます。それは良し悪しではなく、善悪でもありません。インクを滲ませた筆先から音楽が出てくることがないように、また炎が鍋の水を凍らせることがないないように、そして良い土からは豊作が約束されているように、単なるインプットとアウトプットの原理だと私は考えます。
十二縁起という希望
このカルマが生じる仕組みをよく理解させてくれるのが、お釈迦様の説いた十二縁起です。これによると、結果は全て自分が作り出していることがわかります。しかし自分で作っているからこそ、自分の力で人生を変えることができる。十二縁起とは難解で実益に直結しない仏教哲学ではなくて、私たちには自分で自分を変えることができるという希望を与えてくれる偉大な科学なのだと私は考えています。
何よりも重要なポイントがあります。それは、あらゆる霊的学びや実践は、結果をコントロールしようとすることではなく、結果に対する執着から自由になるために行われるという点です。癒しを強く願うことも、病を嫌悪することも私たちをより輪廻に縛り付ける結果となり、私たちの真の望みである幸福と解脱から遠のくことになります。輪廻からの解脱は、社会や世界に対する嫌悪から求められる部分もありますが、修行していくうちにその動機が変わっていくことを誰もが経験します。ニヒリズムとは、現象に幸福を求めたがそれが手に入らないという結果に対して絶望した心のとる消極的な態度です。仏教をはじめあらゆる真の霊的教えの奨励する現世放棄的な態度は、幸福と自由への力強い前進のための礎となります。
十二縁起の解説
十二縁起とは、私たちが輪廻の輪の中に縛り付けられる過程を12の要素の相互関係において説明したものです。私なりの理解の方法としてカッコで分けてあります。
(無明)→(行→識)→(名色→六処→触)→(受→愛→取)→(有→生→老死)
【1.無明】
ここに示されているように、全ての経験の根本原因は無明(真理を知らない、ありのままに物事を見られないこと)によって生じます。つまり真理をありのままに自覚できるようになれば、輪廻の牢獄から解放されることになります。お釈迦様も、輪廻から解脱するためには「無明と愛着を捨てよ」と説いています。
【2.行/3.識】
真実をありのままに見ることができないため、「行」が生じると説かれています。「無明ありて行あり」です。行とは経験や行為によって集積される心の反応パターンと解釈できます。無明によって誤った心理的経験を積み、それをもとにあらゆる物事を判断するようになります。例えば、母親が自分に対していつも優しく接してくれた経験を積めば、その後の人生で女性は本質的に優しいものだと考えるようになります。反対に自分に関心のない母親に育てられれば、女性をそのように見なすようになります。田舎で楽しい経験をすれば、その後田舎を好意的な目で見るようになるし、昔ロン毛の男の人に騙された経験をすれば、その後同じような髪型の人を警戒するようになります。
これは普通の人からしたら極めて当たり前の反応であり、その蓄積が多いほど”円熟した人間”と呼ばれますが、”今目の前の物事をありのままに見る”という観点で言えば、普通の人は過去と、過去についての偏った見解を通して今を見ていることになります。つまり目の前のものをその通りに見ていないのです。
逆に無明のない状態で物事を経験するとすれば、何もかもが至福の経験になります。全てがその時に現れ、そして消えていくだけの幻影であることがわかります。そしてそれがただただ愛の実在する証明となる、至福の出来事になります。これは理屈を超えています。現象という幻を超えている真実だからです。
「識」とは、自分の経験した出来事をどのように知覚するかを自動処理する働きです。例えば自分が何か問題に悩んでいて、友達がアドバイスしてくれたとします。この経験を5人がそれぞれにしたとすれば、各々異なった受け取り方(心理的経験)をします。ある人はそれを「あいつは俺に上からアドバイスして、マウントを取ってきた。いやらしいやつだ」と受け取るかもしれないし、「私にはこうして気にかけてくれる人がいる、なんてありがたいんだろう」と感謝する人もいます。もしくは自分の悩みで心がいっぱいで、そうした人からの声かけに何も反応しない場合もあるでしょう。
ちなみに、この「行」と「識」は相互的に作用します。この二者間のみならず、この十二縁起の全てが双方向的なものです。
(無明)⇄(行⇄識)⇄(名色⇄六処⇄触)⇄(受⇄愛⇄取)⇄(有⇄生⇄老死)
【4.名色/5.六処/6.触】
名色(みょうしき)は、先の行と識に対して「私」という感覚を持つこと。この行と識は自我意識の範囲にとどまることなく、自分の外の世界として知覚されることになります。これが、六処(ろくしょ)です。触はこの自他の接触と考えればわかりやすいでしょう。これらは同時に生じます。自分が生まれてそこから他者が生まれるわけではなく、また接触も、3者は同時的に現れます。つまり夜の夢と同じように、その作者は夢を見ている本人であるには違いないが、自分と他人がいるように見え、またその間にさまざまなやりとりがあるように知覚されるのと同じことがここでは起こっているということです。
【7.受/8.愛/9.取】
名色、六処、そしてその交わりの触。これらはただの経験、現れてはただ過ぎていく情報の流れに過ぎませんが、そこに自我意識が加わり、カルマの影響も重なってそこに快・不快を感じます。これが「受」。
そしてこれらの体験に「これは楽しくて快いからもっと欲しい」と考えるのか、「これは苦しくて辛いから避けたい」、あるいは「どちらでもない」と価値判断を下すことが「愛」。この価値判断にとらわれることを「取」といいます。
【10.有/11.生/12.老死】
先にも述べた「無明と渇愛」ですが、「愛」がこの渇愛に該当すると思われます。なぜなら、愛着によって幻影の世界に囚われ、結果として、私はここに一個の存在として生きているという「有」の状態が生じ、生まれては老いて死ぬという再生の輪の中にはまり込んでしまうからです。無明は確かに根本原因ですが、それをすぐに解決することは難しい。なぜなら、それは完全な解脱だからです。だからせめて、まずはそこから生じた”行と識”という単なる現象、言い換えれば投影された映像に過ぎないものには囚われないようにしようよ、というのが、お釈迦様が無明の次に「渇愛を手放せ」と強調した理由なのだと私は考えます。
癒しと十二縁起の関連
さて、癒しを十二縁起の中でどう捉えるかという話に移ります。まずカルマの法則について、「因果応報」のような処罰的な印象を一度脇において、それは人間を霊的に進化成長させるための仕組みなのだと肯定的に受け止めることが大切です。カルマの法則は、私たち人間が執着しつまづいている物事(課題)を、自分の手に追えるサイズに調整して提示してくれます。時にはそう思えないほど強烈な苦しみとして訪れることもありますが、それでさえ、おそらくサイジングしてくれる存在方に取っては織り込み済みなのだと思います。
カルマの法則の本来の目的は、人間がこの輪廻のに気づき、正しい教えのインプットとアウトプットによって行と識の流れに没入している私たちの心理的プロセスにクサビを打ち込むことにあります。例えば毎朝コーヒーを飲まないと落ち着かずソワソワし出す私のような人間は、そこでハッとして、「たかがカフェインのために輪廻に縛られてたまるか!」と思い出し、行と識の流れに対して執着しない態度を訓練します。また自分が苦手だなと思う人に対して嫌悪の気持ちを持つのではなく、全てが神のお現れなのだと意識を切り替えたり、暑さ寒さ等の苦しみが生じてもそれを嫌がらず、動じない姿勢をとるようにしています。逆に自分にとって好ましいものを目の前にしても(甘いお菓子とか可愛い我が子)、確かにそれは甘いし可愛いが、それらに対して執着しない態度を常に意識しています。
先ほど、癒しを十二縁起の中で捉える、という表現をしましたが、この2者間で言えば、主題は間違いなく十二縁起、つまりカルマの法則にあります。なぜなら癒しも病も、この中であやふやに表現される一時の状態でしかないからです。真理か非真理の観点からすれば、癒しへの執着も病の嫌悪も、同じコインの裏表でしかないのです。
とはいえ癒しは、緊張を取り除き、また人生において正しい態度を学ぶ上でこの上ない価値を持つこともまた事実です。私たちは、病が半ば強制的に自分自身の心理的弱点と向き合わせる良い教師であることを知っています。また自他への正しい態度をとったことへの結果としての癒しは、愛ある学びの偉大な教材であることに間違いありません。その病から癒しという一本のストーリーは、私たちのみならず、人類全体の目覚めのミニチュアと呼んで良いかもしれません。
また病は、私たちが正しい教えを学び実践するために集中力を損なうことがあります。あまりに痛みや恐れの強い状態の人に、「これはあなたのカルマ云々…」などと言うくらいなら、まずはその人の痛みを取ったり和らげてあげて、話はそこからでしょう。聖典を読むとしても、炎天下や足ツボ健康マットの上に乗りながらでは、集中することができません。
正しい教えの実践は必然的に癒しにつながる
ここまでの話の中で、癒しは病と同じカルマの結果であり、癒しを求めることの過ちの可能性について言及しました。私たちが追求すべきは輪廻からの解脱であり、この世のあらゆる有為転変に対して心が動じなくなる、つまり自由になることです。癒しは結果です。心の潜在意識がどれだけ浄化されているかに応じて、鏡たる現象世界は変化します。つまり、この記事の最初にあげた癒しの四つの分類のうち、肉体的、精神的、社会的状態は、それを体験する私たちの心の状態(霊的状態)を寸分違わず写しているに過ぎないのだと思います。
ちなみに潜在意識が浄化されるに従って、霊的癒し(霊的自覚の回復)が起こります。とは言え癒しとは思い出すということであり、目覚めること、元も状態に戻ることです。潜在意識が誤った見解や態度(無明)に曇らされている程度に従って、心は霊的我が家から離れ、そのことが目覚め始めた私たちには耐え難い苦しみとして経験されます。
正しい教えのインプットは、ここでいう行と識の場において正しいアウトプットを生み出します。それはまた無明という根本原因に対して、強力な浄化を引き起こします。「神は死んだ」という宣言を無明と呼ぶならば、「神はここにあらせられる」という態度を訓練するバクティーヨーガ的な修行は、暗く澱んだカルマの流れの源泉に明るい光を注ぎ続ける行為と呼べるでしょう。