日本神道と霊的真理

諏訪大社本宮

日本神道は世界でも独特の宗教と言われています。経典も教義もなく、また権威たる信仰の対象もあやふやです。多くの日本人は、外国人からしてみれば無宗教だと思われています。もちろん、日常で神を意識し、その儀礼を生活の中に当たり前に取り入れているかといえば、そうではありません。こうした意味で確かに日本人は無宗教であると言えましょう。

外国人、もとい他の主要な宗教と比べると、日本神道にはないものが色々あります。子供の勉強机に例えれば、神道は机の上に教科書とノートや鉛筆がありません。場合によっては机さえない。経典や教義、信仰の対象を礼拝する習慣のある他の宗教の信者からすれば、その子が勉強(信仰)していないと判断するのはある意味当然です。

こうした日本神道に対し、私は過去、強い違和感を覚えていました。しかしこのところ、その違和感は深い納得と神道に対する尊敬の念に変わりました。日本神道はある意味非常に高度な信仰スタイルです。というのも、この感覚を文章にすることに限界を感じますが、真我と個我の境界がなく、高度に混じり合いかつ適切な距離をとっているからです。また経典や教義の代わりとして、日本人のそれぞれ個人や家族、集団の道徳的規律、そして善悪の識別によって補われていると思われます。

まず真我と個我の距離感いついてですが、日本では「八百万の神々」として、全ての有形無形問わず、存在する一切には神が宿るとされ、大切にされてきました。これはヨーガの最高哲学と同じ見解であり、「全ては真我の表れである」という理解に通ずるところが大いにあります。また日本人は自我意識が薄く、集団での和を重んじる性格特性があり、またそれを奨励する道徳規範がありますが、これも正しく解釈すれば、高い霊性の表現として考えることができます。

かといって個人の意志は薄弱ではなく、意志を強靭に保つことの重要性、自分に与えられた義務を果たすことの美徳、また人格を柔和に保つことなどの教育が、江戸時代には一般市民にさえ施されていたと聞きます。日本の(ちょっと主語が大きい気もしますが)教育は、その本質は高度な霊性の教育だったのだと思います。つまり個は個としてありつつ、全体へと程よく溶けており、それは家庭やその他のあらゆる場面で学ぶ機会があったのでしょう。

次に経典などがない件ですが、他宗教では、モーセの十戒やヨーガスートラのヤマ、ニヤマに代表されるように、「ああしてください、これはしないでください」とすべて指示が与えられています。しかし日本神道の場合、それが完全に個人の倫理観に委ねられているのです。これは先に述べた高い教育水準によって支えられていたと考えて良いと思います。いくら優れた経典や教義を知っていようが、そうした国々で残虐な行為が容易に起こることを考えれば、結局最終的には、個人や組織の倫理観が最も大切であることがわかります。

日本が過去にさまざまな外国の宗教を受け入れ、自国の文化と和合させてこられたのも、経典など特定の”答え”のようなものを設けなかったことに由来するかもしれません。ここで私は、心理療法家:河合隼雄氏の提唱していた「中空理論」を思い出します。これは中心には何も据えない精神的構造で、円がその中身を浮かび上がらせるようなイメージです。反対に他宗教(主に一神教)の場合、明確に意識すべき存在(神)と、そこに達するための具体的な答えが用意されています。この精神構造の違いは、日本と西洋の日常での考え方の違いによく表れています。※図は河合氏のものではなく、私のオリジナルです。

ヨーガのみならず、高度な霊的認識に達すると、この二つはそれぞれに重要な認識であることが理解されます。従って日本神道も高度な認識レベルでは、おそらく一神教の言っていることがよく理解されるのではないでしょうか。

日本国内でも、仏教のあらゆる宗派の間で激しい対立やキリスト教の弾圧などが繰り返されてきたし、国内でもさまざまな主義主張が衝突してきました。そんな中、神道についてだけは固く沈黙を守ってきたように思います。日本神道に喋る口はないのかもしれません。しかしその確かな存在感は、あらゆる外来の宗教とその教義を包み込み、その姿をして、未だ多くの人に静かに語りかけているものがあります。

日本神道と日本人の理想的な精神性は、非常に高度なものだと私は感じています。教えも信仰すべき対象も不確か。そのような日本神道と日本人元来の精神文化について、仏教やヨーガ修行などを通して初めて理解を前進させられたと感じています。

日本はその立地からしても、イスラエルと同じく、西洋と東洋の橋渡しをする役割にあるように思います。物質面では実際に相当に高度な領域でそれを実現していると思いますが、精神的、宗教的にはこれからだと思います。

経典や教えが真理そのものではないように、日本神道も知的に学ぶものではなく、感じ気づくものかもしれません。もちろん最初からフィーリングでわかっている人は素晴らしいですが、私はあらゆる海外の教えを学ぶ中で、その中に神道のありようが自然と浮かび上がってきました。

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