慈悲心

慈悲心について分かったつもりになっていたわけでもないが、それについての理解が狭かったことを知った。

その限りなさ、広大さ、そして深さについて。

相手の苦しみを自分が引き受けてあげたい。
相手が楽になるなら、自分はどうなってもいい。

この思いを本当に持てたとき、私には愛のその性質の一つが明らかになると思う。

慈悲はこの世の常識や限界を超えている。

超えているからこそ、慈悲心をもった者は輪廻の海から挙げられ、地上や神々から崇められるのだ。

限りなき菩薩の心。宇宙を包み込む神の愛。目の前の相手の痛みを自分が引き受ける覚悟とその法悦。

かつて大乗の基礎をお作りになったお一人である無著(アサンガ)は、激しい永年の瞑想にも関わらず弥勒菩薩に会うことができなかった。諦めて下山したところ、通りがけに犬が倒れていた。その犬は他の犬たちに虐められ、脚にウジがわいて死にかけていた。これ助けたことで、その慈悲心が弥勒菩薩の心を動かしたという。実はその犬は、弥勒菩薩の化身した姿だったそうだ。

アサンガは犬の腐りかけた脚についたウジを手で取ろうとしたが痛がったので、柔らかい自らの舌を使って取り除こうとした。

彼の舌にはおそらく不快な感覚と臭いと味が充満した筈だ。また自らも変な菌に冒されるかもしれない懸念も持つこともできたに違いない。ましてやそれでウジをとるという。

人によってはその犬をもういずれ死ぬのだからと見捨て、自分なりの別の修行に入ったかもしれない。

元気な自分を大切にするという合理性で自分を納得させることもできた。

また、ウジを取るのに適した道具を用意するという手段だってあったはずだ。

だが彼はこれをしなかった。自分の身を顧みず、1秒でもその犬が苦しんでいるのを見ていられなくて、ただ倒れたその犬を憐れに思って苦痛を取り除こうとした。

この理屈を超えた、世間の常識、個々の生命の自己保存の枠を超えたアサンガの慈悲心を、私は自身の経験から少し理解した気がした。

衆生を救う菩提心とは、無量の愛と憐れみによって常識を超えている。

普通はこうだ。

「お互いwin win であるなら」
「私の無理のない範囲で」
「私が幸せでないと人は幸せにできない」

このように、人に施しを為すにしても条件、限界の枠がついている。そうでないと自分を維持できないと考えるからだ。

しかし本当の慈悲心、菩提心は自己を一切顧みることがない。

他者の喜びに喜び、他者の苦しみに苦しむ。

彼は完全にエゴを捨てている。

人によっては、狂っているとさえ思えるだろう。

ああ、なんと限りなく広大な心だろう。

絶えず自己の限定を破ろうと奮闘努力する私たちにとって、足の腐った死にかけの犬は、すでに目の前にいるのかもしれない。

その犬は、決して愛らしくないだろう。

反対に見すぼらしく、醜くて、嫌悪の対象であるに違いない。

しかしそこで試されているとしたら?

現世ではなく天に徳を積むという最高の機会が、目の前に用意されているとしたら?

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