生きた修行

屋久島より、東シナ海を望む

修行を始めるといろんな新しい概念を学びます

悟り・解脱・カルマの法則・慈悲・愛・赦し・現象の虚しさ・エゴ、つまり自我意識など

最初のうちは新しい情報をどんどん吸収していかなくちゃいけないし、

取り込んだそれを実生活や自分自身と照合していくことで忙しい

だから最初、学び始めた人、教えの素晴らしさに魂が燃えて頑張ろうとしている人は、

どうしても頭でっかちになりがち

この向きは一時的には避けられないことのように思います

教えは基本的に言葉によって伝えられていくものですが、

言葉って、象徴なんですよね

象徴ってつまりどういうことかというと、

「食べる」という動詞がありますが、

それは例えば熱々のチャーハンをレンゲで掬って、

ハフハフいいながら口に運び、

舌で転がしながら咀嚼し飲み込んで胃袋を満たしていく、

複雑ないくつもの行程の言語的表現です

つまり「食べる」という言葉そのものじゃない

教えもそうなんです

外的だったり内的な作用や反作用に名前をつけて呼び習わしている

生き生きとした現象を切り出して、

狙った角度から想像させたり考えさせるために、

特定の言語的表現に当てはめているんです

「赦し」という言葉は赦しそのものじゃない

「エゴ」という言葉も、エゴそのものじゃない

何が言いたいのかと言いますと、

「俺は修行するんだ!」

「愛して赦すんだ!」

という気持ちはもちろん本当に素晴らしいものではあるけども、

そう思って修行した気になってしまうことが多いんですね

哲学とかいろんな用語や知識はすごいし言葉も出てくる

でもそこにいきいきとした生の修行そのものがない場合がよくあります

知らないことを知っただけで世界は広がって見えるし、

特に霊的真理に関することですから、

万能の物差しを手に入れたと感じるものです

それだけで自分は成長したと思ってしまうのですね

だから実際に手足を動かせってことなんです

それを振り返ったとき、

「ああ、俺は修行してきた」と言うのはカッコいいですよね

反対に「俺は修行するんだ!」と言いながら行動が伴っていないと、

前進もなければ、前者のような涼しい誇りや自信も身につきません

繰り返しますが、もちろん実行に移す前には、

そうするだけの学習とある程度の論理的理解が大切です

大まかでも納得できないとどうしても実行できないものですから、

実践し続ける以上常に不可欠なものです

でもそれは、生の修行ありきです

言葉は、ちゃんと修行を生きていれば自然と出てくるようになると思います

また、修行そのもの、真理の教えそのものへの確信も実体験によって深まっていきます

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