「この人生の目的は、神を覚(み)ることだけ」

ラーマクリシュナ「不滅の言葉(コタムリト)」

それまで私にとって、人生は選択肢だらけのように見えていました。

それは間違いだったのかもしれません。

・幼少期と学生時代

・修行開始

・社会人としての活動

・愛の鉄槌

・屋久島での修行生活

・最後にひと言

幼少期と学生時代

1991年12月19日 ごく普通の暖かい家庭に、長男として生まれます。

2歳ごろの私

 小学2年の時の担任の先生に、「哲学者のようだね」とよく言われていたのを覚えています。自然とそういう風に物事を考える性格だったのだと思います。その一方で、クラスの友達なんかを自分の世界観の中に引き込んで、授業や休み時間をグワーッと盛り上げる、そんな活発な子供でした。

9歳の頃にはお坊さんへの憧れから、坊主頭にしていました。袈裟を着た葬式の僧侶ではなく、本物の求道者になりたかったのです。

でもそうすると、みんなと一緒に仲良くできない気がしていました。なので、そういう人生とか生命について深めていきたい自分を、無意識のうちに押し殺していったのだと振り返ります。

 

ですから中学に行っても、高校生になっても、本当の自分らしい生き方ができずにいました。

今でしたら「じゃあ仏教の本とか読もうよ」などと思うのですが、当時はもう、本当は何に興味があるのかも分からず、それを探し求めようとする考えも浮かびませんでした。

ただ毎日を惰性で過ごし、学校の授業や友達付き合い、部活、遊びに流されて、フラストレーションの溜まった時期でもありました。

高校に入るとまた個性が強くなってきて、一人でいることを好むようになっていきましたね。

それなりに友達はいましたが、一人で黙々と読書をしたり、学校帰りに物思いに耽りながら延々と自転車を漕いだり、親友と哲学的な談義をしたりして過ごしました。

実際、小さい頃から私は変わった人だったと思うのですが、この頃になってはっきりと友達から、「お前は俺たちとはなんか違うんだよな、何かが」と言われるようになりました。友人たちも何が違うのか、よく分からない様子でした。

高校を卒業して一応大学に行かせてもらうのですが、関心のないことを学ぶのが苦痛すぎて1ヶ月で退学しました。

唯一関心が持てたのは哲学だけでした。ゼミの教授は「推薦するから大学院に編入してもいいよ」と言ってくださったのですが、お断りしました。

修行開始

その後すぐ、私のことを見込んでくれたご夫婦の経営する会社に入ります。このお二人が霊的な事柄に非常に熱心な方でした。

このお二人の勧めで、栃木の喜連川にある内観道場で1週間座るという体験をしました。これが私にとって霊的前進の第一歩でした。

深い内観により心の穢れに気づき、それを落とすことができました。神秘体験が始まったのもこの時期です。

そうすると、じゃあ会社でもいろんなことがスイスイうまく行ったのかと思うものですが、それが逆でした。

会社では当然右も左も分からないので、一般的な大変さは当然ありました。

しかしそれとは別に、ある時から、会社にいると心と体が全く動かなくなってしまうようになりました。

結局2ヶ月足らずで退職することになります。せっかく内観で、家族や自分の身近な人への強い感謝と恩義を体験し、それに報いたいと胸を膨らませていた矢先です。これは自分でもどうしようもありませんでした。


 「生まれて初めて、学校にも仕事にも何にも強制されることのない日々が始まった」

こう思った私は迷うことなく、霊的学びに傾倒するようになりました。

普通なら「次はどこで働こうかな」とか考えるのかもしれませんが、私はそうはなりませんでした。

ヒマラヤ聖者の本を読んだり、洋の東西を問わず、何でも手当たり次第という感じでした。

とはいえ、方向性みたいなものはありました。それは、安易なスピリチュアルには行かないというものでした。

ヒーリングやチャネリング、占いなど、多少は興味はありましたが、それが自分の道ではないと感じていました。

もっと本質的な、リアルで、そして至高の歓喜に至る道を探していました。

というのも、サマーディのような神秘体験があまりにも強烈で、そこにこそ自分の本当の目的があると思えたからです。

ここで出会ったのが、『奇跡講座』でした。今でもこの書は非常に高度な内容だと思いますが、当時の自分にとってはなおさら、理解する手掛かりさえ掴めない状況でした。

でも、なぜかそれを読み続けたんですね。暗号みたいな意味不明な1000ページくらいある本を。

それをひたすら続けて、いつもそのことばかり考えて、実践して、だんだん体験と理解を深めていったんです。

「人生の本当の目的を探求しそれを行う、これこそ最も責任感の強いカモメではありませんか?」

かもめのジョナサン

そこから5年くらい経ったと思います。ある程度内容も体験としてわかって、なんとなく一区切りついたなあと感じていたところ、転機が訪れます。

社会人としての活動

先ほどの訓練期間に、実は物凄い葛藤がありました。

「自分は最高の目的のために人生を使っている」という誇りを持つ一方で、かつての同級生たちは大学に通い、会社に勤めたり遊んだりと人としての人生を味わい、楽しんで、それなりの努力をしているじゃないかと。

当時の私はただアルバイトをして日銭を稼ぐだけでしたので、社会的な能力というのはほぼゼロに等しかったのです。なので「本当にこれでいいのか?」という疑問が常に付きまとっていました。

そんなある日、友人の結婚の話を聞かされました。そしたら目の前にかけてある時計の針が、自分を置き去りにしてぐるぐる回っている感覚に襲われました。

まるで浦島太郎のような強烈なショックを受けた私は、探求を一度脇に置いて、社会人として立派な人間になろうと決意します。

自然農法の畑にて

25歳、全くゼロからのスタートでした。ここからは猛烈にビジネスの勉強をし、追いつけ追い越せの必死の努力をしました。

社会の仕組み、経済学、哲学、地政学、英語、自然科学その他、教養として重要だと思った分野は本を買うなり借りるなりして貪るように吸収しました。

ご縁をいただいた福祉の企業では自然農法を農業者として行い、当時としては先進的な取り組みということもあり、視察や講演を依頼されることもしばしばでした。B型作業所としては他に例を見ない利益も出ました。

他社に移った後は事業運営や経営に直接関わる経験をし、29歳の時に心理療法のカウンセリングルームもスタートさせました。30歳では経営コンサルティングに関する仕事も経験しました。

愛の鉄槌

結婚して子供ももうけ、今度は人のための会社や社会を作ろうと考えていました。

私の中の霊的真理は、ビジネスを通して表現すればいいと思っていました。

ですが本当のことを言えば、純粋に内的衝動に従うことを自分に許せていなかったんですね。

知らぬ間にエゴも随分増長していました。最初自分は社会的に本当にどうしようもない人間だと思っていたが、数年経って色々経験したことで、自信というよりもプライドが強くなっていたんです。

だからある時から、やることなすこと全部失敗することになります。

ある会社に2回とも部長職で入りますが、全くうまくいかないのです。

1社目では自分のプライドが完全に破壊されました。

「自分が死ねば家のローンはなくなる…」と、まさかの自分が自殺まで考えたほどでした。

18歳の時と同じ、職場に行くと全く心と体が動かなくなって何もできない状態になりました。

むしろその時よりも強烈な”抵抗”でした。

「ああ、もっと自分の魂に従わなきゃだめだ」

と深く反省しました。

家も購入し、庭も作り込んで豊かな生活を目指したが…

退職してしばらくして、2社目の部長職が決まりました(これがなんと倍率が100倍以上?の針の穴だったらしいのです)。

ここでは現場の改善活動と運営、そして割と大型の新規ビジネスの開発を任されます。

前回の手痛い教訓を活かし、最初の2ヶ月くらいは社内で非常に高い評価を受けました。

しかしどうしても開発を前進させることができない状況に追いやられ、自分の存在意義が分からなくなり、退職。

別の部署から上場準備にも誘われましたが、どうにもそこで働く意欲が湧かなくなってしまいました。

今振り返ると、それは私の道ではなかったんです。

ビジネスの分野で成功して、それなりに稼いで、人の役に立ち、経済を回す。いい車に乗って、中の上のようなさも賢げな暮らしをする。それは誰かの作った成功のイメージに過ぎなかった。

ビジネスという枠の中では、魂はまるでカゴの中の鳥のように、羽ばたく自由と喜びを失っていました。

だから神は、私に本道を思い出させてくれたんですね。

これまでにもいろんなサインを送っていたけど私が全然気づかないから、仕方なくこうした鉄槌を2度も下して、目を覚まさせてくださったのです。

かくのごとき有暇を得て
自ら善を修習しないとしたら
これほどの迷妄があるだろうか
これほど愚かなことがあるだろうか

ボーディ・チャルャーヴァターラ

私の人生の目的は、輪廻の車輪を回すことではなくて、その終わりなき回転を止めることに集中することだったのです。

うわべの善、ありきたりな無難な善ではなく、勇気を出して魂にとっての善を行うべきでした。その目的の自覚は、どちらかというと責任感に近いものでした。「ああ、やらなければ」という感じです。

屋久島での修行生活

さて、2度目の部長職が挫けたことで私の心(エゴ)は完全に折れました。サレンダー、お手上げでした。

かわいい娘も生まれたばかり。ここで優しい妻が「あなたは自分のやるべきと思ったことをすればいいから。私が代わりに働く」と言ってくれて職探しをしますが、なぜかアルバイトさえ見つかりません。

ここで夫婦ともに、群馬でやっていく未来が見えなくなりました。

どこかに移住することを考え始めたある朝、妻が唐突に「屋久島に住みたい」と言い出します。

屋久島なんて二人とも行ったこともなければ、ほとんど意識したことさえありませんでした。でもそう言い出してすぐ現地を見に行って、なんとなく流れを感じたのですぐ移住したんですね。それは不思議とスムーズにいきました。

友人と、屋久島の奥岳にて

引越しももちろんですが、島での生活は大変なものでした。

第一に慣れない気候と文化。また特に屋久島は島全体が山のようなもので、気圧やその他微細な環境の変化が激しい。

更にはその土地の特異なヴァイブレーションもあって、人によっては善悪問わずカルマが表出しやすい。

移住者の人たちが口を揃えて「屋久島は現実化が本土の7倍早い」と言っていたのは多分そういうことです。

私たちも例に漏れず、島にいた約15ヶ月の間に、4回の引っ越し、店の開業、不動産賃貸業、そしてゼロ歳児の子育てと、まるで嵐のような時間を過ごしました。

精神的にも肉体的にも非常に揉まれました。体感としては、10年分くらいの濃密な経験でした。まるでドラゴンボールの『精神と時の部屋』で、過酷な重力に耐えながら修行したようでした。

その期間に集中して仏教、ヨーガ、秘教を学び実践し、精神的に大きな前進ができたと感じています。

色々な経験をする中で、次第にこう思うようになりました。


「修行によって真の智慧と徳の力を身につけて、人々の表向きの欲求ではなく、魂の役に立とう。そのためならどんな苦痛や困難でも受け入れよう」

最後にひと言

今人々の多くは、自分が霊的な存在であることを自覚しつつあります。

けれども、どう行動に移したら良いのかわからず、迷子になっていることが多いのではないでしょうか。

自己中心性や個人的感覚に振り回されているものも多く見受けられ、これは非常にもったいないことと思います。

「本当は真っ直ぐ神の道を歩みたい」と心の深くで思っている魂が、1日も早く正しい道に目覚めることを願います。

自分よりも他者。エゴよりも神。受け取ることよりも与える喜びを。

私たちの本当の喜びは、魂に生きることによってのみ実現します。