自分の限界をこえる意外な方法
あらゆる宗教で懺悔が重要視されていますが、
実際懺悔は心を浄化する上で不可欠なものです
懺悔のない霊的取り組みは全て中途半端と言っても良いと思います
なぜなら、懺悔がなければ神への帰依もあり得ず、
したがって自我意識は増大するばかりだからです
「私は罪にまみれている」
「自分ではもはやどうしようもない」
この認識が私たちに神を求めさせます
そうでないと、エゴは浄化ごっこをします
エゴは自分が綺麗になれると思っていますが、
そんなことはありません
月が何をしても自ら輝く太陽になれないように、
エゴは聖なる視点からすればどこまで行っても穢れです
私がこれに気づいたとき、
イエスの放蕩息子のたとえを思い出しました
あれは親の財産を使い果たしたどうしようもないドラ息子が、
自分の愚かさに気づきそれを恥じ、
父なる神のもとに戻ろうとする話です
これも懺悔ですよね
そして重要なことが、
自分のどうしようもなさを自分でどうにかしようとしていない点です
自力を諦め、完全に神に頼っています
「何事も自分の力で」という考え方が好きな人は、
この放蕩息子の態度があまり好きになれないと思います
「自分で散財しておいて親に泣きつくなんて!」
という気持ちもわかります
もちろんこういう姿勢が重要な局面というのはたくさんありますよね
できる範囲を全力で頑張るというのは大切なことです
ですが神との本質的関係においては、
「私はどうしようもなく、かつ無力だ」という懺悔と諦めを土台とした、
帰依と明け渡しが必要なんだと思います
「私など」という謙虚な態度が、
心の限界を超える鍵となるケースが実際にあります
というか、だんだんそうなっていきます
どういうことかと言いますと、
実際自分の力で確かに色々やっているんだけども、
実はそれさえ神のお力でやらせてもらっているにすぎないことが、
徐々に分かってくるからです
浄化においてもそうですね
神に意識が向き始めると、
どういうわけか人生が大変になっていくという現象があります
これはひとえに神の愛です
私たちの持つさまざまな悪い性質を落とすために、
神が上から水をかけてゴシゴシやってくれるんです(笑)
場合によっては内側からやってくれることもあります
本当にありがたいことです