自己実現と利己実現
自分らしく
自分の得意で
自分の好きなことを
こう言われて久しい昨今
これまで「自分」というものを押し殺してきたことの結果でしょうか、
今度は「自分」を活かす方向に社会が向かい始めています
しかしいつの時代もやる人はやってきたし、
やらない人はやらなかったので、
こうしたムーブメントの中身を冷静に受け止めるようにしています
とはいえこの動きは、自分の資質に着目しそれを活かすという、
天から与えら得たミッションに対する責任感が芽生え始めた印ではないかと、
私は思うのです
しかしながらタイトルにもあるように、
利己的な願望実現と自己実現は大いに混同されているように見受けます
私も含めて皆がその区別がつかず混乱しているようです
利己実現は、「私」という個人の気分や欲求を満たすための活動です
対して自己実現は、他者に献身することとその結果に対して満足することのように思います
ある程度成熟した男女は、
後者の自己実現に向かいたいと考えます
自分の資質を十二分に活かしつつ、
多少の困難があろうとも、
人に奉仕することを通して喜びを得る方が素晴らしいと知っています
ですが気が付かぬうちに、
利己的な願望実現の方に突進しているケースがほとんどと思います
ここでは簡単な表現に留めますが、
利己実現は100%自分のためであり、
自己実現は100%自分以外の他者のためと、
その違いはこれ以上ないほどに明白です
現代は暗黒時代も同じですから、
正法が違法であり、
違法こそが正法という、
転倒した価値観がはびこる時代です
またエネルギー的にも、
自分の中で正法を選択しキープするのが難しい
本当の自己実現とはまさに菩薩の生き方になります
「自分のことはどうでもいいからあなたが幸せになってほしい」
「そのために私にできることを”させていただきたいのです”」
そう廉直に思える人に苦しみはあり得ません
なぜなら苦しみとは、
自利を欲する心に関連して無条件に生じるからです
私たちは皆例外なく幸せになりたいと思っている
それには自己実現するしかないと朧げながら感じ始めている
つまりそれは菩薩の生き方をすることなのです
幸せを感じたかったら、
自分とその才能、能力を完全に手段として考え、
他の人々のために奉仕する以外にありません
また神がお与えになった才能は、
存分に振るうことで神がお喜びになるものです
だから自分の得意のうちのどれか一つ、
最も魂の震える一つに集中したいですね
キリストやブッダの道に従って歩むこと
魂の光輝に集中して生きること
結果として「私」という個人的な感覚を卒業すること
これは修行することによって確実に前進していきます
神に心を合わせ、神を愛し、隣人を愛し、自分のことを忘れる訓練です
人間の目指すべきあり方って、
本当はそれしかないんです
だから多くの賢明な人が最後に行き着くのは、
霊的な生き方なんですね