空っぽな「わたし」

「私って空っぽなんだ」

あらためてそう気づいた

人から「あなたは空っぽな人間ですね」なんて言われたら、

普通いい気分にならないと思う

だけど今なら、心からニコニコして「あはは」って答えると思う

「私なんて空っぽですよ」と、嬉しくて緩んだ表情をすると思う

これに気づいたとき、

中身を詰め込もうとしてきた努力や緊張、

またそれにまつわる苦悩やプライドを抱えていたことにも気づいた

そしてそれらは脱落した

私たちというエゴは、どれだけ努力したところで身のある存在にはならない

肉体もその中心が空洞であるように

エゴには核となる中心がない

あの人と私、彼と彼女、これとあれ

空っぽなもの同士を比べても何にもならないじゃないか

富者だろうと貧者だろうと

IQ50だろうが200だろうが

黒人だろうが白人だろうが

それらには最初から中身なんてない

かわいいどんぐりの背比べ

みんな同じなんだよ

唯一実体を持つのは真我だけ

神の愛とその掟(ダルマ)のみが、

私たちの空っぽな中身を埋めてくれる

エゴを埋めるための努力の空虚さに気づいたとき

必ず神に行き着く

この経験を持った人でも、

ストレートに神に向かえる人とそうでない人がいる

私はできるだけ多くの人に、

神へと真っ直ぐ進んでほしいと思っている

それが本当私たちへの道だから

同じ願いを、自分自身にも抱いている

空っぽな虚しさを埋めるために

実体の不確かな「自分」の手触りを得るために

評価のしようがないものを無理して賞賛したり非難したりするために

私たちは”それ”と自己を同一視し、

そのために人生を費やしてきた

しかしその実際を受け入れ諦めたとき

意外にもそれが私たちを自由にしてくれる

神を求める道とはエゴを手放す道

私たちはエゴに確かな実体があってほしいと願うから

修行はなかなかに大変なものになるけども

それを諦めるにしたがって、

道はやさしくはっきりとしたものになると思う

ところで、

「真我はどこにあるの?」と聞かれても、

それは目には見えない

でも確かにそれはあるんだな

真我がある証拠としたら、

それは笑顔や、無条件の優しさかもしれない

それは儚いものかな?

しかし私たちが最も心動かされるのはそういったものじゃないかな?

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