起こるがままに任せる
なんていうのかな
自分の身に起こってほしいことと、
反対に起こってほしくないことを、
あまりにも強く規定しすぎている気がする
自分にとっての理想のイメージがぼんやりとあって、
それを「常識」とか「普通」とか言ってる場合もあるんだけど、
そこから外れることをものすごく嫌がるんだよね
だから私たちの多くは、
自分の人生のパターンみたいなのが決まってしまっていて、
気がつくとそこから抜け出せないことの方が苦しく感じるようになる
怖いでしょ?
「自分らしさ」の枠から出ることは
でも苦しいよね
「自分らしさ」の檻に閉じ込められているのも
「らしくない」と感じられることは続かないかもしれない
でもそれが自分に起こるということは、
祝福すべきカルマの清算なんだ
それを歓迎して、受け入れて、
その中で一生懸命誠実にやれば、
決まりきった人生のパターンの輪は、
少しずつ壊れてゆく
神がそこから掬い上げてくださる
神は私たちが可愛くて仕方ない
この時思い出すのが、
映画「イエスマン」もそうだし、
または居酒屋庄やの「はい喜んで」の掛け声
自分に降りかかる何事にもこのように応え、
ある意味開き直って「させていただく」の気持ちでやれば、
エゴはどんどん小さくなる
最初は「俺はこんなことやりたくないのに…」
なんてぼやいていても、
「はい喜んで!」という気持ちで無理やりやっているうちに、
本当に楽しくなってきたりするものだよ
何事も一生懸命やっていれば道が開けるのは本当だよ
でも勘違いしてはいけないのは、
それはエゴのための道が開けるわけではないということ
「俺」や「私」のための道が開けるということじゃないんだ
ではなんのための道?
それはね、
みんなのための道
私たちという一体の生命のための道が開けるんだ
自分一人の幸福や覚醒のための道ではなく、
共同体としての人類、
共に道を歩みつつある同胞が一緒になって前進するための道
秘教では特にこのとこを強調している
関心が自分ではなく自分を含めた共同体に向かうことが、
真の進歩した弟子の特徴であると何度も繰り返している
他者の痛みや課題を自分のものとして感じ、
それが克服されることを自分ごととして喜ぶ
そんな心を持った人は、
文字通り「エゴのない人」と呼べるよね
だから人生起こるがままに任せる人は、
偉大な進歩と覚醒の確かな道を歩み始めている
自分の成長や自分の達成などどうでもいいんだ
大丈夫
不安なこともあるだろうが、
その時はそのとき
あなたの内にあり、またあなたを包み込む神性が、
全てを良き方向に運んでくださるから