神の意志を行うことの意味
「自分には一切の喜びや満足を与えない」
これくらいの気持ちがなければ、
神の意志を行うスタートラインにも立てない
私は最近、特にこう思うようになりました
現代は自己犠牲とか無私の態度を嫌う傾向にありますが、
本当の聖なる生き方の根幹は無私の奉仕にこそある
聖者がどうして聖者と呼ばれるのかといえば、
分離した自己のために何も求めない人にこそ、
神聖さと真の力が宿るからではないかと思うのです
ですが、私たちがこのように最初から考えることはできませんね
だから修行がある
私たちは修行を通して、
自分の生活の中での考えや動作や反応を支配しているエゴに気づき、
正しい教えと照らし合わせて、
本当に自分にとって望ましいのはどちらなのかをじっくり検討します
そうして徐々に日常でのエゴへの投票数を減らし,
自分の中で聖者の説いた真理への信頼を増やしていきます
こうすることによって私たちの中のエゴは徐々に薄まります
同時に、正しい生き方への確信が増していくことになります
そうしていくうちに、
「いや、エゴはもういいんだ」と徐々にエゴを諦めることが増えてきます
自分の快適さを追求することに飽き飽きし、
自然とそれ以外の道に足が向かうようになるのです
すると見えてきます
これまでエゴを大事にしていたから見えていなかっただけで、
我執がなくなってくると、
家族の求める必要
隣人の求める必要
そして社会の求める物事が見えるようになってきます
だから私はこう言いたい
「本当に自分のやるべきことを知りたいならエゴを捨てよう」と
そうすれば神は、隣人の姿を借りて私たちに色々と求めるようになります
というより、神は最初から私たちのために導こうとしていたことに気づくのです
「神の意志」というと、
私たちはなんだか壮大なプロジェクトのようなものをイメージします
もちろんそういうこともあるでしょうが、
神は親切だからもっと手前から、
言うなれば一分一秒、
足元から一歩づつ踏み出す道を示してくれています
だからあえて極端なことを言うと、
ハイヤーセルフのガイドとか、
宇宙人からのアドバイスとか、
そんなものは最初から間違っているというか、ズレています
そういう存在の言葉を参考にしたいなら別ですし、
それがとても有益な場合もあるでしょう
そもそも私たちに自分の存在への信頼があったらそんなものいらないし、
いちいちそんなものに頼っていたら、
たとえば、定期的に霊能者のところに通うなど、
その日自分が何をするのかさえ、外部に頼らなければならなくなります
他者の言うことにいつまでも振り回されて、
一向に地に足がつかない
実際これは、多くのスピリチュアルな仲間たちの課題ではないでしょうか?
エゴをなくすというのは、
自分から太陽と星々を遮っているその屋根を外せということだし、
「我執」という色眼鏡を外して世界を見ろということなのです
「神の意志」を知ることの意味を、
自分を中心に間違って捉えてはいけません
それを自分の活躍とか、
安定した収入や人気とかに混ぜて考えているそれらは全部間違っているのです
答えは、純粋な忘我と愛と奉仕の精神の中にこそあります
神は全ての人にその人に合った最善の道を用意しています
だから私たちは「自分」への愛着をすっぱりと断ち、
結果を心配せず、ただ誠実に愛と忘我に基づいて、
やるべきと思ったことをやれば良いのだと私は考えます