真我の体験

真我のイメージは花がよく似合います

あるときから、自分のハートに手で触れると、

幸せな気持ちが溢れてくることに気づきました

ハートに当てた状態で人と喋ったり、物事を考えると、

それらのことを愛さずには居れないのです

それはどれだけ精神状態が悪くても関係なく、

無条件にそうなることに気づいたのです

この愛は何か特定の形に関わらず、

その向こう側にある本性に向けられている感じです

それが男だろうが女だろうが、

醜かろうが美しかろうが、

新しかろうが古かろうが、

自分個人にとって好都合か否かを問わず、

それらを全て同じものと見なしています

同じなのです

相手も自分も、

あそこに立っている電柱と自分も、

犬もこおろぎも、線路も床の米粒ひとつも全部同じ

これはちょっと言葉になりませんね笑

と同時に、今まで自分だと思っていたものが自分ではなかった、と気づきます

これまで自分だと思って愛着していた

肉体、思考、感情、その他諸々、

これらはなんというか、

空虚な仕草の塊というか、

何かによって動かされているプログラムというか、

根源はわかりませんが、

なのでどうでも良いとさえ思えてきます

それらは目に見えない原因の結果なのです

そして結果にすぎないのだから、

それに対して云々しても仕方がないとわかります

この状態にあるとき、

私は人を愛する機会をいつも探しているようです

他者の自己中心的な態度の全ては、

愛を欲している純粋な子供のように見えます、本当に

だから愛に乏しい表現をしている人を見かけると、

それはとても豊かな機会を提供してもらっていると感じます

目に見える自分の損や不利益などどうでも良いのです

”ただ愛であることそのもの”に価値があると、本気で感じています

というか、それが正しい本来の視覚なのでしょう

この愛に終わりも始まりもなく、

欲望も執着もまたそれを内包した「私」も、

その瞳からは「偽我」であるとわかります

エゴはそもそも私たちではないのです

心は私ではないし、

体は一応自分で使えるわけだけれど、

それだって本当の自分とは違う次元にある

エゴを越えるのにはもちろん、

訓練によってそのプロセスを踏んでゆくのは必須です

でも本当にそれを越えるときというのは、

それは努力という下から上への圧力ではなく、

上から下を見下ろすような、

急な意識の転換が起こるように思えます

努力は、その転換を引き起こすための条件作りと解釈するといいかもしれません

「私」という、私たちが愛してやまないパーソナリティは、

真我を表現する用具にすぎない

魂のエネルギーを流れさせそこから光を放つ、

まるで電球のような役割と思います

またこの視点からいろいろな霊的教えを読むと、

例えばギータとか仏典とか聖書でもなんでもですが、

それらを裏側から読んでいるような不思議な感覚があります

こうした理屈を超えた精神状態は、

日常の1〜2割ほどを占めています

また何よりも嬉しいのが、

他者を害する思いや言葉に対する自覚が急速に発達して、

不適切な身口意が減ってきたということです

とはいえ急に無知に転落してしばらく留まることもあります

ゆっくりじっくり進んでゆくこの感覚を、

よく味わいたいと思います

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