身体的行法のはやらなくてもいい?
世界には無数の霊的訓練のメソッドがありますが、
その中には身体行法、
体操といってもいいのかな、
これがあるものもあればないものもあります
ないもの、あるいはなくても十分に発達を遂げることができるとうたうものについて、
わたしは『奇跡講座(奇跡のコース)』やヨーガスートラの実習からそれは真実であると感じています
すべては心の働きであり、
エネルギーであり、
身体的、あるいは外的要因はそれの結果であるというのは本当のことです
また霊的達成をなすのは常に上からの恩寵です
もちろん私たちは自分の能力を尽くして全力で努力しますが、
それは恩寵の流れを引き寄せる呼び水のようなものです
だから帰依心が大切なのですね
一方で身体行法を必須とするのはたとえばハタヨガに代表されますが、
ここでは一応、「行為」という意味で儀式も含めて考えたいと思います
すると我々にになじみ深い神道や
仏教の密教、ユダヤ教やキリスト教でもあらゆる儀式がありますね
「行為」を超越した真理を悟ることが目的ですから、
これらはなくても実際は問題ないです
よく「行為をして行為を超える」という表現もあるように、
その階段をすっ飛ばす方法は、
先に述べたヨーガスートラなど実際にあります
けれどですよ、
ここはちょっと混乱するポイントなんですが、
私たちが肉体をもって生きているうちは、
誰一人行為を捨てることはできないんです
「何もしないのをしてるんだよ」
というくまのプーさんの名言?のようなものがありますが(笑)、
私たちは呼吸をしなければもちろん死んでしまうし、
心臓は常に動き、
血流は体中に酸素を常に供給して、
神経は体のあらゆる器官を統合してバランスを取り続けています
ぼーっとしていても何か考えているものだし、
グナの働きによって何もしないでいることは不可能なのです
で、これは修行の観点からの話になりますが、
私たちが日常で無意識にとっている行為というのは、
しばしば自身を害するものが多いのです
害するというのはたとえば口寂しさに間食をするとか、
スマホをだらだらいじるとか、
余計なことについていろいろ思考を巡らせたり様々ですが、
これは皆さん自身、振り返ると色々思い当たると思います
ここで身体行法の話になります
先ほどは「本質的に不要」とは言いましたが、
「どうせ行為しなければならないなら、本当に良いことをしようじゃないか」
というのが身体行法の価値だと私は思っています
修行の本質は精神的なものです
これに変わりはありません
しかし日常の行為が私たちの精神に及ぼす影響を考えますと、
行為の内容に注目する価値は大いにあるわけです
ですからそのことについて、
「身体行法はやるべきだ」ともいえるし
「やらなくてもよい」と言っても嘘にはならないわけですね