聖なる法則が目の前にある
私の身に起こるすべての現象は、
私自身なのだ
理不尽なこと
自分個人に原因のないこと
相手の過失による被害
その他自分に降りかかってくるように見えるすべては、
私が作り出した自作自演の鏡のようなもの
だから「愚者は誰人の友でもない」と言われる
彼はそれが鏡であるとわかっていないから、
他者と自分との本質的な繋がりを認識できない
あの人を動かしているのは自分
自分が動くから、鏡の中の彼も同じように動く
けなせばけなされ
怒れば怒られ
相手が微笑んでいるとき、自分も同じ顔をしている
実際これは、微妙な問題
偏狭な理屈ではなく、
浄化にともなう直感でしか理解できない真実
こうしてカルマの法則を100%受け入れた人は、
自分の行いだけに注目するようになるだろう
他人が自分に「したこと」や「してくれなかったこと」に関心を持つことはなくなり、
自分が他者に「したこと」や「しないでおいたこと」に日夜注目し続けるだろう
分離した自己はますます学習手段として適切に位置づけられるようになり、
それに伴って必然的に苦しみが目に見えて減ってゆくのを、
私たちは身をもって経験する
苦しみは、自己への強烈な偏愛によって生じる
それ以外はない
またサットヴァの質料が増加することにより、
霊的太陽はより輝きを増し、
私たちはますます自分の身口意を隠しておくことができなくなる
より高位な活動が活性化するに伴って、
闇の大きさと輪郭はよりくっきりと浮かび上がる
これは苦しみであるが、
神から何も隠しておくことなどできないことを認めるや否や、
自己への誤った集中は解かれ、
カルマの法則により深い確信を持つようになる
それは紛れもない愛の法則
法則を使用する前に、
それに抵抗することをやめ、
理解をもって喜んでそれを受け入れる態度が先行する
だから他からなされた善は喜ぶべきことであり、
同じように他から為された悪も喜ぶべきことだ
なぜなら、結果の善悪にかかわらず、
それは聖なる法則の顕現であるから