苦の原因と脱出法(八聖道)
この現代日本において認知されている限り、明確に霊的流れを生み出したのはお釈迦様だと私は思っています。主クリシュナの存在も決して無視できるものではありませんが、イエスよりも前に登場し、地球的な出来事として考えれば、お釈迦様は、人の苦しみの原因と解決法をはっきりとお説きになり、人類に知恵の光を強烈に注ぎ入れました。これはのちのイエス・キリストの霊的達成と宇宙的贖いのための道を整えたと解釈することもでき、比類なき偉大なことだと思います。
イエスもシッタールタも、人類に対して今なお多大な貢献をしています。シッタールタがブッダ(悟った方)となられた際、もし梵天の願いを聞き入れなかったならば、それは人類にとってどれだけ大きな損失であったか。またイエスがご自身の最後を知り、もしその場所から逃れていたならば、私たちはこれほどまでに霊的に啓明されることはなかったはずです。

この世は苦である
ブッダの教えはまず、「この世は苦である」という第一見解から始まります。私たちはこの世には苦も楽もあると感じていますが、ブッダはこの世に関するあらゆることが苦だと言っています。これはブッダが、「俺は苦だと思うんだよね」という感想を述べているわけではなく、全てを知った全知者の立場から、そう断言しています。しかもそれが数ある教えのトップバッターに来ているところに注目すべきです。
だからこそ、仏教は輪廻からの解脱を目指す体系としてあります(日本では葬式的な役割が強くなってしまいましたが)。輪廻そのものが「苦」なのです。だから今回のタイトル「すべての苦の原因と脱出法」は、正しくは「輪廻の原因と脱出法」となります。苦しみから本当に逃れたければ、輪廻転生から解放されなければなりません。
このためにまず私たちは、「自分が今感じている楽は本当に楽なのか」と疑うことから始めなければなりません。というのも、私たちはこの世の二元的な苦楽の楽の方に行けば苦しみから逃れられると思っているからです。入菩提行論には、このような秀逸な表現があります。
「衆生(人々の意)は苦しみから逃れようとして、かえって苦しみに突進する」
「苦しみという結果を嫌い、苦しみの原因を望む」
私たちは暑いところから涼しい場所に行くと楽を感じますし、地下鉄の暴力的な騒音よりも森林浴の小鳥の囀りを好みます。意地悪な人よりも親切な人と一緒にいたいと思うし、そういうことはいわば自然なことです。あまりに我慢していたら病気になって死んでしまいます。これが苦しみに突進していることになるのか?その場に限ってはそうではありません。
しかし存在という大きなスケールで考えるならば、楽は必ず苦とセットですから、そこに執着することが私たちを輪廻の回し車に縛り付けることになります。暑ければ木陰に入ってもいいし、お腹が空いたら食事をして当然です。しかしその苦楽の二元的な感覚のみに支配されていると、私たちは愛着と嫌悪の言いなりになってしまい、苦の本質を見失うことになります。
楽しく快いと思っていたものも、実は単なる”苦しみではない状態”に過ぎません。そもそも「輪廻が苦である」、というのが、お釈迦様のもつはっきりとした見解です。
四諦
1.現象的な宇宙に存在するものは、苦悩や悲哀と無縁ではあり得ない
訳が優秀だったので、アリスベイリー著書より引用
2.苦悩の原因は、現象的なものに対する欲望である
3.苦悩は、現象的なものに対する欲望を一掃することによって止む
4.苦悩を終わらせる方法は、高貴な八重の道を歩むことである。それは、正しい信念、意図、発言、行動、生活、努力、関心、集中…
お釈迦様の説いた四諦には、これ以上ないほどにはっきりと苦しみの原因について述べられています。そしてよく聞く八聖道は、四諦から続く教えです。
この八聖道の特徴のひとつは、苦悩を終わらせる方法、すなわち苦しみから自由になるかどうかは、他者が何をするかではなく、自身がどのような生き方をするかにかかっていることを明確にしているところかもしれません。「彼がこうしてくれたら」「会社がこうだったら」「親が…」というのは、現象的な宇宙に期待することであり、そう考えている限り苦しみは増大し、その存続のために養分を与え続けることになります。
親鳥から餌を運んできてもらうことを期待する雛鳥は、餌がくれば満足しますが、来なければ不安になり、怒り、絶望し、親鳥という外的条件によってしか反応できなくなります。実際にその雛鳥のようになっている人たちはたくさんおられます。そしてその時の感情的なしこりにいつまでも悩まされ、巣立った後も他の鳥に対して口を開けて待っているような生き方をします。だから苦しみが生じます。それは現象に対する欲望だからです。「欲しい」。これがこの雛鳥の中にあるものです。
お釈迦様が四諦の教えでおっしゃっているのは、この欲望を自分の意志で引っ込めて、代わりに示されたあり方の理想を追求する方法です。全ての苦しみにはこの欲望が関係していることを自身の中で明らかにすることをファーストステップとし、欲望の主体の態度を反転させ、対象に対して自分がどうあるかに集中することが苦悩を終わらせる方法だと、たった4行で説明しています。これはすごいことです!
八聖道
八聖道は人によっていろいろな解釈がありますが、一般に知られている語句に置き換えて私なりの解釈をしてみます。
1 正見
これは正しいインプットだと思っています。というのも、世の中には欲望に招き入れるような罠がいくつもあって、正しい情報がほとんど入ってこない環境だからです。ここで思い起こしたいのは、まずこの世に生まれそして真理の法に出会えたことの幸運を噛み締めること。これはどんな財産にも代え難い宝物です。
世の中では、金銭や人からの人気を得るのに役立たないものは”趣味”や”きれいごと”として二の次に見られる傾向がありますが、そういった流れに抵抗し、正しい生き方の教えに巡り合うことの稀有さを常に思い出すことはとても大切なことです。
のみならず、輪廻やカルマの法則について考えること、神や宇宙について正しいと直感で感じたものに常に触れるための意識的努力が、この正見に当たると私は考えています。ちなみに私は、携帯の待ち受けをヨーガの訓戒と規範にしています。
このようにして常に正しい教え(情報)に触れることで、心の中のデータを徐々に綺麗にして行きます。現代社会は人間の欲望や不安を煽る広告に溢れています。そうした濁流に翻弄されることを拒むことが、教え通りに生きる上で不可欠な土台となります。
2 正語
これは正しい知識に基づいて正しい言葉を語ることです。言葉はその人の内的な状態を非常によく表してくれます。私たちはまず、みだりな言葉の使用を控えることから始めます。言わなくて良いことを言わずにいること、沈黙することの価値はそれを習得する人にとって非常に大きなものです。
次にその言葉によって人を決して傷つけることがないようにします。これも同様に難しいものです。嘘をつかないこと、人を落ち着かせ、正しく喜ばせる言葉を発することなどもこの正語に含まれます。いうべき時に言う、相手と和合する目的で自分の率直な気持ちを伝えることも同じく大切です。
3 正業
言わずもがな、正しい行いのことです。しかしこれは想像以上に難しいことです。私たちには、結果どの行為が正しくて間違っているのか分からないからです。なのでこの場合、自分の誠意の届く範囲において正しいことをする、またその結果に対して満足する、ということです。もちろんここでの行為は、真理の教えに沿ったもの(赦し、愛、無執着)です。
それとこれは私の個人的付け足しですが、自分に与えられた資力(肉体・時間・財産・地位・知識)を適切に分配活用し、高慢にも卑屈にもならなずに自分に与えられた義務を全うすることもここに該当するように思われます。いわゆるカルマヨーガです。
4 正命
人はこうした霊的道を発見しても、すぐに100%できる人はいません。最初は3%くらいから始めて、徐々に何年もかけて15…20…30%と増やしていくものです。もちろん、私たちは全力で真理の教えに沿った人生を送ろうと努力しています。
そうしてしばらくやっていると、やっててよかったなと思える出来事が起こります。このときは自分が結構修行が進んで達成しているように感じます。しかしまたしばらくすると、「俺がやっていたことはままごとに過ぎなかった…」と気付き、更にまたそこから前進します。
こういうことを繰り返していると、やがて本当に妥協できないところまで来てしまったと感じる時が訪れます。「教え通り生きるか、死か」というとびっくりする人もいるかもしれませんが、本当にそういう風に感じるときが訪れます。文字通り、「正命」です。教えに命を捧げるか、という問いを自らに発するようになります。
しかしここまできている人であれば、教えこそが真に私たちを幸福にすることがよく分かっているので、そこまで躊躇することはないように思います。またここまできた人といっても、まだ30%しか実践できていなかったり、日によっては惨敗、というのが普通です。「教えの実践に対して全てを犠牲にしても構わない」と決断してからが、本当の始まりかもしれません。それまでは引き返すことができるからです。
5 正精進
自分にはダルマの実践しかないと覚悟を決めると、いろいろな試練がやってきます。それは外的な形をとることもあれば、自分の一番触れたくなかった心理的弱点を自覚し始めることもあります。まあ両方だと思ってください(笑)こうしたあらゆる魔や悪との戦いを教えの実践によって制していくこと。これが精進の段階と思われます。
6 正念(関心) 7正定(集中)
この二つに関しては、私はまだ経験したと断言するのは自信がないため語ることができません。推測としては、六波羅蜜と重ね合わせて正念は瞑想、つまり心の中のゴミをきれいにするフェーズ。正定は同じく瞑想により直接真我を悟るフェーズではないだろうかと考えます。これはいずれにせよ瞑想によって達成されるものだと思われます。
苦しみの根源を知ることによるメリット
八聖道を見ていくと分かるように、それは自分の心を変えるために訓練する方法です。他人をどのようにすればよいかというアイディアがひとつも出てこないという点に着目すると、私たちは非常に困難で厳しい立場に立たされていることがわかります。というのも、苦しみの多くは人間関係において生じるものであり、私たちは普段から「ああ、この人がこうしてくれれば私は幸せになれるのに!」という欲しがる気持ちにエネルギーの大半を注いで生きているからです。
たとえ、目の前にいる人がいかにワガママで、思慮がなく、明らかに悪意ある態度で私たちに接してくるのだとしても、それに対する批判や要望というのは押し並べて「この世はあなた(相手)の態度次第で私にとって楽になる」という宣言に他なりません。つまり不平不満を抱くということは、お釈迦様の教え(知恵のエッセンス)からすれば非論理的であり、知性を欠き混乱した思考の状態ということになります。いわゆる「無知」です。
この、苦しみの生まれる原因を正当な場所(自分の中)に引き戻すこと自体、自我意識にとって強烈な苦痛になります。しかし私たちの魂が正法との縁に目覚め始めたならば、その抵抗に負けることがあったとしても、いずれは教えがこの上なく明らかな真実であると認めるようになります。
苦しみの原因について認めることが容易になれば、同時に実践も簡単になってきます。これまで実践を難しくしてきたのは、原因がどこにあるのかについて混乱があったからです。そしてこの容易になっていくプロセスに伴って、行動について改めることと自分自身の価値についてきちんと切り分ける能力が増大します。また、思考がとても建設的になり、過去という妄想への執着は急速に弱くなります。「あの時ああだった…」と嘆くことがなくなり、反対に「私はこのような状態を望む」と、自分と他者の理想的な状態に関心が向き、今の中にその萌芽を見つけようとするようになるのです。そして、受け取ることよりもいかにして与えるかに意識の注目が寄せられることになるので、人間関係にもポジティブな影響があります。