ヨーガスートラ② 訓戒(ヤマ)

さて、ヨーガスートラ2回目のお話です
今回はヨーガの八支則のうち最初にあたる、
訓戒(ヤマ)についてです
前回はヨーガスートラの全体像についてみてきました
それを見て多くの精神世界の探究者たちは
「なんて素晴らしいんだ!でもどうやってそれを達成するんだ?」
と疑問に思われたかもしれません
これから解説するヤマと次回説明するニヤマは、
それに応える最も重要なものです
まず最初に言っておきますが、
ヨーガの八重の訓練は真我との合一を引き起こすためのいわば条件づくりです
たとえば私が女性からモテたいと思うなら、
女性から好かれる条件を揃えるところから始まります
何にもしてない冴えない男の状態から、
いきなりモテ男になることなんてできません
ひげをそり、髪を整え、清潔感ある服を着る
そして女性がされて嬉しいと感じることを日常から心がける
そうそう、しっかり稼ぐことも忘れちゃいけません
そうしていくうちに私は、
気が付けばモテる男の条件を満たすこととなり、
結果として嫌でもモテるようになるという寸法です
これはちょっと冗談っぽく言いましたが(笑)、
ヨガの訓練も同じ道理です
この場合私たちの人格や習慣を、
複数のテクニックを使って真我にふさわしい波動に調整することを目指します
訓戒(ヤマ)
以下が訓戒にある五つの「行ってはならないこと」です
1.無害であること
2.真実であること
3.盗まないこと
4.不摂生をしないこと
5.貪欲にならないこと
一言でいえば、
これは私たちの人格のうち不適切なものの解体です
神聖であり、全体であり、愛である真我の媒体としてそぐわないものを、
ここでは「行わないように」と戒めています
ひとつずつ、簡潔に説明しますね
1.無害であること
これは広く「不殺生」といわれるものですが、
これは誰に対しても有害な影響を与えないという意味にまで拡大される必要があります
人はもちろんですが、
動物、植物、鉱物、そして神々に対しても当てはまります
自分の行いや言葉、そして抱く想念のすべてが、
誰かを不快にさせても傷つけてもならない
この第一の「指示」は、
深く考えるほどにその奥深さと厳しさがわかります
実際この訓戒さえ守れれば、
ほかの訓戒のすべてをカバーしたのと同じことになります
2.真実であること
これは「嘘をつかない」と訳される場合がありますが、
私たちの思考を鍛えるために、
「真実」と「嘘」について両方から考えてみる価値があります
この真実というのは、
日常的なことはもちろんですが、
私たちの霊性という真実に基づいて考えるのが妥当でしょう
そしてそれは、
各人がどの程度真実を自覚しているかに応じて変化します
いついかなる時でも自分や他者に対して真実であり続けるというのは、
時に私たちを困難に直面させます
しかし嘘をつくことが私たちにとってどのようなデメリットとなっているのかを正しく認識すれば、
噓をついてまで物事をやろうとはしなくなるものです
また同時に、言葉のもつ本来の力に敬意を払うようになります
この訓戒は主に発声に関する戒めだからです
この訓戒を守った結果としてこのようになると述べられています
「言葉と行動の効果が直ちに現れる」
このスートラのみならず他のすべての訓戒は、
結果として私たちを保護するものなのです
そう思えないのは、
それだけ私たちの価値観が転倒しているからです
3.盗まないこと
これはシンプルに、
万引きや置き引き、ネコババ、金銭の横領はもちろん、
微妙なものとして人の手柄を自分のものにすることも該当しますね
くわえて私は次の言葉をもとに解釈しています
「人の畑のものに手を出しちゃいけない」
どういうことかといいますと、
他人のカルマに干渉してはならないという意味です
他人が畑に蒔いた作物を刈り取るのは盗みですよね
これは他人のなした良いことの結果に自分が浴することはもちろん、
悪い思考や振る舞いの結果である課題や苦悩を自分がいたずらに背負うべきではない、
ということを意味します
これは霊的であることが単なる「受け入れるやさしさ」ではないことを指摘しています
これはドライな感じがしますが、
これは経験から霊的進歩には欠かせない態度だと感じています
人は互いに助け合って生きるものです
時に頼り、時に助けるものですが、
そのどこかには必ず線引きが必要なんですね
話が少し飛びますが、
托鉢の作法として、
「同じところに何日もとどまらない」というものがありますが、
これには貸し借りを作ることで縁が生じる(カルマ交換)のを防ぐひとつのテクニックのように思います
同じところに留まって布施を受ける人もいますが、
それは心が清浄になったアルハット(阿羅漢)以上の段階の人の話です
彼らの場合はほぼすべてのカルマを浄化しきっているため、
布施を受けてもそれを「光の祝福」で返すことができるそうです
4.不摂生をしないこと
日本では一般的に「禁欲」と翻訳されており、
性的衝動に対する慎みと理解されているようです
しかし本来の実践的意味はより深く、
霊的人間と形態を結びつけるすべての衝動から離れることを意味します
ちなみに私たちがこの世に転生するのは男女の性愛によって受胎するからですが、
それだけ性というものは私たちを形態に結びつけるという意味で、
訓戒において性的慎みが前面に出てくること自体は間違っていません
自己ではない形態に意識を強く注ぎ込むことは、
性愛のみならずあらゆる娯楽に見られます
ヨギはこれらの全てを不摂生と見做します
目や耳、肌などからは、
刺激を取り入れようとして常にエネルギーが漏出しています
エネルギーを内側に溜めることによって悟りへのエネルギーに転換するのが目的です
5.貪欲にならないこと
貪欲の反対は満足であり、
それは理性的(メンタル的)な状態です
知的な日本人が好む「足るを知る」の真義がここにあります
「貪欲さが完全になくなったとき、再誕生の法則が理解される」
とその達成が描写されていますが、
これにしたがえば貪欲さとは、
私たちを輪廻に縛り付ける主たる要因であると推測することができます
「こうなりたい、もっとこうしたい…こうしてみたい…」
これは現状に満足できない状態であるのと同時に、
変りさえすれば私は満足するだろうという思い違いによって生まれる貪欲さでなくて何でしょうか?
必要が悪だと言いたいわけではありませんが、
「必要は発明の母」という言葉は、
貪欲さと物質形態の絆を象徴しています
物質的な進化繫栄と霊的進化の道は異なります
また注意して考えたいのが、
この貪欲さが私たちにとって非常に多くの罪を生み出す原因となっている点です
例えば日本ではコロナ前後からペットブームになっていますが、
犬猫などをお店で購入するというシステムを維持する以上、
それによって犠牲になるペットが生まれることが避けられません
あれやこれが食べたいといって、
季節でも地場でもないものを食べるとなれば、
それだけの運送や保管設備や、
食品を安全に保つための添加剤などが使用され、
それらは自然界に負荷をかけるのみならず、
私たちの人体さえも蝕んでいます
まとめ
これは宗教や信じているもの関係なしに、
普遍的に私たち人類が守るべき項目です
ですから本当はこういったことを、
すべての親が手本を示しつつすべての子供に教えるべきだと思っています
そもそも日本には、
形が微妙に違ってもこうした教えが文化としてありました
もう一度深く霊的な意味合いをその中心に据えて、
再び日本が高度な精神性を取り戻せたらいいですね