イエスの空白の17年から、生き方を学ぶ

福音書に示されているイエスのご生涯を学ぶことは、

私たちの実際的な霊的歩みにとって重要な意味と教訓があります

これを学ぶにあたって、

私たちは次のことを心に留めるべきでしょう

・イエスの生涯が福音書を通して「部分的に」人類に共有されたという事実

・イエス個人に起こったとされている出来事(誕生、洗礼、変容、磔刑、復活と昇天)は、記録されていない空白(もしくは記録はあるが詳述されることはない期間)における活動の結果であるということ

・イエスは「私に続くように」私たちに伝えている

私たちはどちらかといえば目に見えるものに注意を向けがちですが、

ここではその行間に挑戦します

なぜなら先にもお伝えしたように、

イエス個人に起こったこと(福音書に記載されていること)は、

重要な局面と局面の間の何かしらの活動の結果であり、

私たちにとって重要なのは紛れもなく行動の模範だからです

かといって「誕生、洗礼、変容…」などのそれぞれのイニシエーションが重要でないはずがありません

毛虫の一生を見てもわかる通り、

卵からの誕生は次の幼虫期の活動の方法と内容を条件づけ、

サナギの時期にはその形態が活動を非常に内的なものに条件付けます

そして羽化と共に毛虫は地表から分離し、飛び回り花の蜜を吸って生きることになります

このように、イエスの人生のある地点で起こった出来事は、

次の活動を条件づけるターニングポイントだからです

空白の17年

偽書であるかどうかは別として、

トマスの福音書の発見によりイエスの幼少期の活動が垣間見えます

しかしここでは、

彼が私たちに真似してついてきて欲しいと願っている彼の生涯で、

一体どのような努力がなされたかに思いを巡らせましょう

それこそが私たちが続くべき道の発見と再確認に繋がるからです

そこで最も考察しがいがあるのが、

12〜30歳までの空白の17年になります

これはイエスが12歳のとき、

寺院での一コマから始まります

するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。
しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。
それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。
母はこれらの事をみな心に留めていた。
イエスはますます知恵が加わり、背も伸び、そして神と人から愛された。

ルカ2章 49~52

実際ここにあるように、

彼は30歳までの歳月、ナザレでの静かな家庭生活を送ったと考えるべきでしょう

それが事実かどうかではなく、

他ならぬ「神の言葉」である新約聖書に書かれ、

それが今日まで人類の霊的熱意の対象となっているという理由から、

私はこの記述に価値を見出します

イエスの弟子の一人として道に続く者は、

確認のしようもないことを議論するよりも、

今与えられているヒントからそれを見出すことが仕事です

そこで何が起こっていたのか

まず寺院という象徴的な場所で、

彼が自身の使命について発言するところに注目します

「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」

ベツレヘムで肉に宿ったキリストとして生まれた彼の中で、

一巡の象徴的数字でもある12年かけて認識が徐々に成長し、

寺院にて「父の仕事をする」というヴィジョンを獲得しています

己の神性という種子が成長し、

神性が可能性の段階から事実へと変わっているのがわかります

「ナザレに下ってゆき」とあるように、

これはイエスの生涯の特徴でもありますが、

霊的意識拡大、変容を経験したのちには下っていくという表現が使われています

つまり彼はヴィジョンを得て、

その感じるところに従ってナザレに下り父母に従ったのです

一市民イエスとしての生活

両親に仕えることは、その意味を超えて、

自分の兄弟、近所、そしてガリラヤという小さな共同体に従うことを意味します

イエスは両親と兄弟のもと父親の仕事を手伝いながら、

小さな町に溶け込んで年月を過ごします

現代の私たちの誰もがそうであるように、

単調で時にむさ苦しい日々を過ごしながら、

労働や家事の疲労や家庭生活のいざこざに耐え、

集団地域や家族の要求への黙従を強いられます

またその中で奉仕と犠牲と理解についてを学び、

内なる神性を発揮する能力を徐々に獲得していったのではないか

私はこのように思いを巡らせます

イエスは自分が今いるところから自らの道を歩まれたのでした

霊的ヴィジョンが彼をそこに導き、

その家庭生活という最も困難な場所を通じて神性を現すことで、

彼はのちに偉大な達成と業とを行うに至ったのです

このナザレという地での日常生活が、

のちに世界という大家族を背負う肩を作り上げたと言っても過言ではありません

ですからこの空白の17年の彼の一小市民としての生活を、

いくら高く評価してもしすぎることはないと思います

「もっと家族が理解してくれたら」

「お金があったら」

「育つ環境や状況が違ったら」

「違う人と結婚していたら」

日頃このように考えがちな私たちは、

このイエスの過ごし方から多くの気づきを得るばかりでなく、

大きな勇気を得ることができます

こうした彼の活動を条件づけたのは、

紛れもない寺院での「使命」への直感であり、

それが彼の17年間を条件づけました

そしてこの年月が彼を「洗礼」へと導いたことを疑う余地はありません

そして荒野での試練に遭われ、

その後すぐに強烈な活動期に入ります

まとめ

この人類の比類なき「メシア」としての基盤を作ったのが

実は地味な「家庭生活」であった…

このように聞いて私は少し落胆を覚えます

霊的活動はもっとこう、

ダイナミックで、劇的で、ドラマチックなものだという印象がどこかあります

しかし同時に、安心もします

彼がその人生を通して、

圧倒的大多数である私たちに向けて模範を示されたと考えることで、

彼も私たちと同じなのだと感じることができるからです

実際問題として、

自分が今いる場所で霊的表現者として立派に振る舞うことができなければ、

そのようになるまで他の機会が与えられることはないと考えるのが自然です

この17年の空白を考えるとき私は、

運命が自分に与えた、

今自分の立っている場所が道のはじまりなのであって、

私たちはそこから逃げるべきではないのだと感じます

「もし」とか「たら」とか「れば」なんて考えるのはやめて、

今この場所から一歩ずつ未来を作っていく

それしかないですよね

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