人生の決断を支えるヒント
決断の連続が、
私たちの人生の車輪を回転させていきます
それらを私たちは、
ほぼ自動的に行っています
自分で反応しているようでいて、
自分で考えているようでいて、
それは過去の経験によって作られた心の反応パターンに支配されています
そう、まるで私たちは、
自己学習機能を持ったコンピュータと同じように、
過去に学び取ったことに条件づけられて生きています
自分らしく、自分の判断で物事を選び取りたいと願う
最大限に生産的で賢い判断をしたいと頭では考えている
しかしその実、
私たちはこの学習と反応というプログラムの上をなぞっているに過ぎない
ネズミが夢中で車輪を回すように、
ゲームの筋書きがあらかじめ決まっていてプレイヤーはそれを面白がって繰り返すように、
私たちは自分で決めて自分で行動しているという錯覚に生きています
これを東洋人たちはカルマと呼び、
その終わりない繰り返しから逃れる方法を探求しました
その輪廻からの脱却を「解脱」と言いますが、
「正しい選択」の先にこの解脱があることは、
わかる人にはわかります
なぜならあらゆる利己性という「我欲」が、
この形を纏って転生に入るという生命の樹の根にあたるからです
この根(サンスカーラ)に斧の一撃を加えること
つまり「形態への欲」を徐々に根絶することこそ、
ここで私が「正しい選択」と呼ぶものです
なぜなら賢い人には、真理と非真理を識別する力があり、
より広大な真理に目覚めることによって、
私たちは個人を超えた全体という生命をリアルに感じ始めるからです
「人に親切にしなさい」
「ものを盗んではいけない」
「与えられた境遇で満足すること(足るを知る)」
「質素倹約に努めなさい」
「両親を敬い、神仏に礼拝しなさい」
これらの現在世にある道徳は残念ながら、
この真理の土台を見失っており、
その方法だけが漠然とした理想論で語られるのみとなっています
ブッダの説いた八つの正しい道でさえも、
それが無知(非真理)からの分離のための方法論であるという認識が土台がなければ、
たちまちに虚しい偽善的な標語と同じものに成り下がってしまいます
ですからここで時間と機会を共有している私たちは、
この「正しい」か「間違っているか」の議論をする前提として、
それが真理の認識に一歩でも近づくことなのか否かに基づいて思考しなければなりません
言い方を変えれば、
「その決断は霊(全体的な生命)のためなのか、あるいは個我(個人的な生命や情緒、欲求)のためなのか」
という着眼点から考察しなければならないでしょう
そうでなければ、この話題はたちまち道に迷ってしまいます
二つの内省
言うことは簡単ですが、
その状況にあって冷静に決断するには多くの経験が必要です
都度誠実に判断していく中で、
成功や失敗のフィードバックから徐々に精度を上げていくことが、
さしあたって私たちの人生の課題であり、
振り返った時の妙味とも言えましょう
具体的に言いますと、
主に二つの観点からの内省が求められます
A. 自分の魂の願いとエゴの気ままの違いの識別
B. 全体や身近な他者のために自分を忘れる能力
この両者は実際は一体のものです
そして実際のところそれは、
イエスの命令である「汝の隣人を愛しなさい」という教えに集約されています
まずは自分の魂、真我、キリストが、
どのような奉仕をすることを望んでいるのかを知るべきです
多くの場合、この魂の衝動は十分な強さを持つ一方で、
それを表現するパーソナリティの準備不足によってその表現が歪められてしまいます
準備不足というのは、
日常生活で主の訓令を守ることを通して達成される人格的な純粋さと、
情緒と思考パターンの浄化のことを指します
私たちは最初、
エゴ的な衝動と魂の愛と奉仕の衝動の区別がつきません
ですから私たちは、
数多くの失敗とたまの成功を通して識別の訓練をしなければなりません
この日常的な(そして地道な)識別の訓練の結果として、
Bの忘我の能力も必然的に発達していきます
現代の風潮は逆でして、
個人の自己実現と自由をとても大切にしていて、
またそれを守る意味合いでの多様性が重要視されています
しかし意識が自分個人に集中しすぎることによる弊害を、
私たちはすでに社会問題や自身の経験を通して感じているはずです
また思い出すべきこととして、
私たちは個我に集中したときにのみ、
怒りや恐怖、不足感や不平不満を感じます
個我への集中することは、
貪欲さと尽きることない欲求を掻き立て、
それは実際のところ、
私たちのなし得るあらゆる悪と不正に通じる道の起点にもなります
反対に忘我的であることは、
文字通り自己中心性とは反対の結果を生み出します
自分ごとのみならず集団での活動においても、
優秀なビジネスマンや成熟した家庭人であれば、
忘我的姿勢の価値を知らない人はいないでしょう
これはただ人の言いなりになる消極的な態度と違い、
積極的に集団のために奉仕しようという主体的態度です
正しい選択と決断をしようと努力していると、
おのずと以上のこの二つを軸としたものになっていきます
自分への集中を解除し、
奉仕と愛という魂の特質に自分のリズムを合わせていくことを通して、
真我としての生き方は徐々に花開いていくように思います
この道が平坦であることはあまりないかもしれませんが、
登りでも降りでも崖でもぬかるみでも、
それが私たちをよく鍛えてくれます