「覚醒」よりも、まずは預流向へ

スピリチュアルではよく「覚醒(目覚め)」と言う言葉を使うようですが、

私からするとそれはあまりにも薄っぺらく、

魅力ないものに映ります

多くの場合その定義は曖昧であり、

それらは概ねこのように分類できるかもしれません

・世の中の支配構造について情報や知識を取り入れること

・自分の抑圧した情緒を解放すること

・気分が高揚すること

・自分が世の中の大多数の知らないことを知ったと感じたとき

・霊的に目覚め、新しいパワーを扱えるようになったと感じたとき

・民族としての自覚を取り戻すこと

「私はこれを覚醒と定義します」と言われたらそれまでですが、

もっと適切な言語化ができるのにそれを差し置くあたり、

宣伝する側も集まる側も、

「覚醒」という言葉にあやかりたい気持ちがあるのかもしれません

あるいはきっと、その言葉から慰めを得たいのです

「あなたはこれで覚醒しましたね」

「次元上昇しましたね」

「世界の秘密に触れましたね」

このように言われるとまるで、

単調な日常の中の凡庸な自分が

何か偉大な流れに入っているような気分になるものです

認識と知識の拡大

情緒の解放と浄化

思い込みの自覚と共に訪れるよりバランスの取れた現実感覚

これらが正しい発達のプロセスであることに間違いありませんが、

それらを覚醒とひとまとめに呼んでしまったら、

カレー作りを例にすれば、

食材を買いに行くことも、

食材を切ることも、

玉ねぎを炒めることも、

「カレーを作った」ことになってしまいます

では本当の覚醒とは何か?

これは経験上の意見になりますが、

「私」という感覚が「なかったこととして」文字通り消えた状態で生きることではないかと思います

成長し学び、怒ったり喜んだり、罪を犯したりする「私」から覚めている状態です

「この世にありながら、この世の者ではない」存在の状態とでも言いましょうか

これは、過去の自分の全ての無知と不正がリアリティの黄金の波によって洗い流され、

ブッダに「我は如来なり」と言わしめたあの至高が訪れるあのリアリティです

リアリティという言葉がここでは適切だと断言します

これは私たちが五感に依存して感じているものを遥かに凌ぐ現実感だからです

またこの真の覚醒に近づく段階的な目覚め(それを証する態度)を挙げるならば、

私は以下のものをそう位置づけたいと思います

・利他的な思考と振る舞い

・人を傷つけるイメージを抱かない

・至高者へのひた向きな愛と集中

・自分のためには何も求めない生活態度

・感情や欲求に傾倒しない日々の瞑想的な姿勢

明確な目的を持ち、

情緒的で発作的な努力ではなく、

メンタル的に着実に刻一刻を重ねていくこのような人、

またはこの状態に向かって奮闘努力する人こそ、

偉大な霊的流れに入った人だと言えるでしょう

仏教ではこれを「四向四果(しこうしか)」の最初の段階である、

「預流向(よるこう)」といいます

気になった方はwikiのリンクを載せておきますので、

見てみると勉強になります

四向四果(四双八輩)とは?

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