泥臭さと諦めの悪さ

真理を探究する私たちは、

定期的に障害にぶつかります

障害にもいろいろあるのですが、

たとえば自分自身の人格の壁がありますね

これはあるべき理想と現実の振る舞いのギャップが壁として、

もしくは飛び越えるべき深い谷として感じられます

こういう場合はまだましです

輝く理想が視界にしっかりと入っており、

熱意は十分だからです

しかし私たちを本当に挫けさせる障害があります

それは道そのものへの誤った疑問であり、

道に固執することよりも分別臭くあることを選択させようとする、

ある種の「気分」のようなものです

「自分は本当に意味のあることをしているのだろうか」

「おとなしい社会生活に戻った方がずっと楽じゃないか」

「家族を安心させる方が重要じゃないのか」

「このままの暮らしではみじめなだけ。
意固地にならず柔軟に社会に溶け込めばいいじゃないか」

このような思いが、

道を歩んできても何も成果が得られなかったという落胆とともにやってきます

この気分は私たちに、

自分が最高だと信じたものに人生を差し出すという献身的選択ではなく、

単なる肉体やパーソナリティの安定のための惰性的な選択を促します

言わずもがな、

私たちは前者を選ぶべきです

人生は、自分が最高だと信じた物事に費やしてこそ輝くからです

そのためであれば私たちは、

喜んでバカになろうではありませんか

諦め悪く泥臭く、

自分が一瞥した忘れがたいヴィジョンに固執しようじゃありませんか

人は本当にいつ死ぬかわからないのです

そして、必ずいつか死にます

もし今日死ぬとして、

目的に向かって前のめりで倒れますか?

それとも理想に背中を向けて倒れますか?

この倒れた向きによって次の転生が決まるとしたら、

私はもちろん前のめりで逝きたい(笑)

目的に向けた確かな一歩を今は感じられなかったとしても、

そしてその方法が本当は間違っていたとしても、

それでも最高の理想にこだわっていたい

諦めたらそこで試合終了

体は生きながらえたとしても、

魂にとっての人生は終わる

諦めなければ必ず道は開ける

馬鹿でも熱意さえあれば、

その熱に神はほだされるんだ

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