罪と罰の偉大な法則

そもそもどうして、

過ちを犯すと何かしらの苦痛が生じるのか?

物を盗めば罪悪感に苛まれ、

欲望のままに飲食をすれば不調や病気になり、

自己中心的な振る舞いは他者との軋轢と苦痛を生むのか?

他者を攻撃したり避難して良いことは一つもないし、

魂の声を無視し続ければ人生は闇に包まれる

思いやりや奉仕が調和と発展の結果を生じさせ、

不調和の波動を中和するのと同じで、

この罪と罰の因果関係は偉大な法則の一つであるように思う

この法則は植物や動物には当てはまらないが、

人間には当てはまるという点は興味深い

そして私たち人間は、

過ちを犯し、

その結果としてあらゆる苦痛という罰を経験することで、

徐々にそれを行わなくなる

もしこの世に罪に対する罰の法則がなかったなら、

私たちは決して進化できなかっただろう

基本的法則に基づいたルールがなければ、

私たちは永遠に動物的人間のまま、

自らの生命の本質に対する無知と離反に気づくことなく、

次なる生命の位階に達することはできないし、

その萌芽すら見ることができなかったように思う

私たちは色々な経験を積んで徐々に大人として成熟していくが、

特に失敗の経験を通して学ぶことが多いように思う

苦痛は、自分の何かが間違っている明確なサインだと思う

そこには苦痛の生じた原因が必ず存在し、

これは宇宙の偉大な進化の法則の一側面だと私は思う

そしてもう一つ興味深い点がある

急速な意識拡大を求めて邁進する進化した魂には、

その法則がより厳密に適応されるように感じている

たとえば食事

世の中には暴飲暴食をしながら元気な人がいる

彼らは明らかに自分の欲望に沿って肉体を使用している

一方これは私の場合だが、

彼らと同じように欲望に沿った食事をするや否や、

それは体の不調として即座に跳ね返ってくる

不調になって振り返ると、

「ああ、あれか!」とわかる

あるいは言葉

世の中には言葉のうんと汚い人が大勢いる

あろうことかその口汚さで人気を得ている人もいる

彼らはそれでぜんぜん平気なのだ

さらにその応報が返ってくるのも遅い

人づての話ではあるが、

今生では何一つ清算しない場合さえある

魂との合一に身を捧げようとする人たちは、

言葉の過ちの一つ一つに敏感となり、

そのカルマの返還も早い

即座に苦痛として自らの過ちを味わうことになる

切ればすぐさま切り返され、

叩けば自分の頭にこぶができる

実際の学習のスタイルとしては、

こうして因果応報のスピードが速い方が理想的であるといえる

そうでないと私たちは、

自分の何が間違っていたのかに気づけないことが多い

間違った反省に陥ることも多く、

それは多くの時間を無駄にする

これはカルマの法則の一部でもあるし、

六波羅蜜の忍辱の修行段階と重ねて解釈することも意義深い

今流行のほとんどのスピリチュアルは罪について触れたがらない

しかし古代に散在した純粋な秘教的訓練体系では、

罪についての正しい認識を霊的飛躍の土台にさえしている

本当の霊性の探究の道は狭く、

選ばれた者たちだけが静かに歩む

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