神を愛して
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もし自分が死んで、
閻魔様か神様かわかりませんが、
彼らの面前に立った時、
「自分はかれこれのことをやり切った!」
と自信をもって申し開きできるなら、
本当に素晴らしいですね
それをしていると魂が喜び震えること
お天道様の下で堂々とできること
これはお金になるならないとは関係なく、
世間的な評価とも関係なく、
すべての価値観から自由な活動です
なぜならそれは未来を創ることだからです
主イエスはこのための偉大な理想を私たちのハートに植え付けました
私たちには、その聖なる理想を育てる仕事が与えられています
人々を助け、勇気づけ、その情熱に火を灯すような理想です
人によってその仕事は様々ですが、
私自身はこれを、
イエスやブッダに代表される聖者方の事業を助けることと感じています
多くの魂が己の霊性に目覚め、
道を誤ることなくこの世への執着を断じ、
存在する喜びと、
生きていくことのより高い意義を発見することのために自分を使いたいと思っています
もしこれができなかったら、恐ろしいですね
私はきっと死後の世界で小さくなって罪悪感と後悔の念に苛まれると思います
ですから私はこの事業を、
何がなんでもやらなければなりません
世俗的なあらゆる課題や困難を乗り越えつつ、
知性と肉体を適切にコントロールしながら、です
このような理想が私の中に芽生えたのも、
そうした人間の前に様々な問題が降りかかるのも、
またそれらが驚くべき方法でクリアされていくのも、
これらはひとえに、神が愛だからです
私にとって、神は非常に現実的な存在になりつつあります
神は高邁な理想でもなく、
きれいごとでもなく、
自分の手足よりも近いところにある現実なのです
世の中がお金という血流で脈打っているように、
私の肉体も、そして私という意識も、
すべてが神の愛ある御計らいの掌中にあるのを実感します
それはリアリティなのです
分別があることを自負する大人はよく「現実を見ろ」といいますが、
私たちは分別を捨てて直接「神を見」なければなりません
神が私を愛してくれているように、
私も神を深く愛さなければなりません
これは最初からできることではなく、
いろいろと思索や実験をしながらの練習によって育まれます
ですから最初は、
「どうしたら神がお喜びになるのか」
とひたすら考え抜くことからはじまります
そして実際にやってみるのです、純粋に
最初は失敗しますが、
徐々にできるようになってきます
そうした練習の積み重ねが浄化になり、
浄化された心にはより深い知恵が示されます
当然その知恵には、愛が伴います
ですから単なる博学と霊的成長は無関係なのです